平均八〇年に一度、火山灰が降るという環境は、人間にとって、あるいは動植物にとってどのような影響を与えたであろうか。戦前の研究者のなかには、赤土が堆積していた時代は、あまり植被もなく、乾燥気候が支配する、とても人間の住めた時代ではなかった、と推定する人もあった。それは、赤土の産状に基づくばかりでなく、それまで赤土のなかからは、考古学的遺物が発見されなかったことにも由来している。
ところが、表土をなす黒土層からは、多量の石器や土器が出土し、明らかに人間がいたことがわかるし、黒土の黒色そのものが、腐植に由来するものだから、黒土の時代は現在と似た地表景観であったと考えられたのであった。
しかし、戦後、群馬県岩宿(いわじゅく)で赤土のなかから土器を伴わない石器が発掘されるに及んで、考えは一変した。それまであまり注意されなかった赤土から、厳密にいうと南関東の立川ローム層のなかから、次々に石器が発掘され、この時代にも人間が生活していたことがわかった。またそれに平行して、赤土のなかにも、それが表土であったときに生産された、腐植がかなり含まれていること、植物珪酸体といわれる、植物とくにイネ科草本のつくった鉱物が含まれることが知られるようになった。しかし、含有量は赤土の中では黒土層より少ない。こうして、次第に赤土時代の自然環境の様子がわかってきた。
いっぽう黒土層については、つい最近まで、赤土の表面が風化し、それに腐植が集積して土壌となったもの、土壌学でいうA層であるという見解と、赤土とは別箇の、独立した地層である、という見方とが対立していた。両者のいずれをとるかによって、火山灰による編年は大きく変わる。前者にしたがえば、黒土形成期つまり沖積世には、火山灰の堆積はなかったことになる。宝永の火山灰のみが、沖積火山灰だという意見もあった。しかし、調査が進むにつれて、黒土もまた赤土と同様に、火山灰が積もってできたのだという論拠が、沢山えられるようになった。赤土層は更新世の火山灰層であり、黒土は沖積世の火山灰で、それぞれ独立した地層だというのである(7)(8)。弥生式土器や縄文式土器は、古いものほど下位の黒土からでるという規則性も、その証拠の一つだし、何よりも、富士山の近くへ行くにつれて黒土層は厚くなり、しかも何枚もの火山灰層からできていることが確実なよりどころとなる。
黒土も赤土も、そのほとんどは、富士山の火山灰である。いまわれわれのみる富士山は、黒土層の時代の噴火活動でつくられたものだが、赤土層の時代の富士山は、現富士の下に埋もれている。この古期富士ともいえる火山は、少なくとも海抜二、七〇〇メートル以上の高さをもつ大火山であった。現在にひきつづく新期富士山の活動は、古期富士の活動からやや時を置いて始まり、この大火山をさらに大きく成長させたのである(7)。
ところで、同じ富士山の活動で飛ばされた火山灰が、どうしていっぽうでは赤土に、いっぽうでは黒土に、と分化したのであろうか。色の黒さは、前述のように、腐植の含有量に比例する。腐植酸が暗色の物質だからである。腐植の生成量が多かったのは、おそらくそれを供給する植物が赤土の時代よりも繁茂していたからであろう。この植生条件とそれに関与する気候については、後にまた述べるのでこゝでは省略し、ここではこのほかに、火山灰の堆積速度が黒土時代には赤土時代よりおそかった、という点も関係することを指摘しておく。火山灰と溶岩との量比は、火山活動の爆発度を知るめやすになるが、この点からいうと、新期富士の活動は古期のそれより爆発度がおちた比較的穏やかな活動であった。しかもより間歇的だったことも、絶対年代の測定資料と、火山灰の厚さの調査から知られている(7)(8)。
黒土層と赤土層(立川ローム)との境界の年代は、地史でいう沖積世(完新世)と更新世の境にあたり、ほぼ一万年前と考えられている。これは放射性炭素による絶対年代の測定や、出土する考古学的遺物の編年に基づいている。