火山灰の下の地層のあらまし

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品川区内では火山灰の断面すらもはやほとんどみられないのだから、その下の地層となるとなかなか人目に触れなくなる。ただ、この地域の開発がすすみ始めた大正年間から昭和の初期にかけては、区内のあちこちに自然の崖や人工の切り割りができて、当時の地質学者により詳しく調べられた(第10図)。品川貝層という品川宿周辺に模式地が設定された地層名もあるほどである。都市化のいちじるしいその後の時代は、主に試錐をつうじて地下の状況がさぐられている。そこで、この節では、こうした既往の調査結果をもとに、当区の地下に横たわる地層の様子をのべることにする。


第10図 北品川宿小関(いまの北品川五丁目の台地部)でみられた崖(藤本治義編,『関東の地質』(1928,p.228所載)

   イ 東京層(品川貝層はこの下部にあたる)
   ロ 褐色砂礫層,この章では武蔵野砂礫層とよんだもの(原著には成田層と記してあるが,これは現在の用い方と異なる)。
   ハ ローム層,うす黒い部分を境にして下部は武蔵野ローム層,上部は立川ローム層とよばれる。武蔵野ローム層の中下部に東京軽石層(図中にTPと記した白っぽい層)がある。

 区内の地形面が成立したのは、地質時代としてはごく新しい時代であるため、地形とそれをつくった営力の名残り(証拠)である地層とが、よく対応している。その関係を模式的に示すと第11図のようになる。

 高輪台や荏原台の火山灰層の下には、東京層と一括してよばれる、主に浅海底でたまった地層がある。この地層はほぼ水平に堆積しており、上位の火山灰層とは整合的な関係にある。つまり、これらの台地は、この東京層の堆積面である。


第11図 品川区の地質層序を示す模式断面図
 品川区のほぼ中央部を北北東~南南西方向で切った断面。

 目黒台では、これと異なり、火山灰層の下には武蔵野砂礫層とよばれる、河成の堆積物がある。ここでも武蔵野砂礫層の表面は現地表と平行であって、目黒台の平坦な地形が、河川の氾濫原の平坦さに由来することを物語っている。いうまでもなく、台地の平坦な地形をつくったのは、これら海成、河成の地層であって、火山灰は空から雪のように降下・堆積したにすぎず、平坦面そのものをつくったものではない。

 目黒台の武蔵野砂礫層の下には、青灰色のシルト、粘土層がある。これは多くの場合、高輪台、荏原台にある東京層のつづきだと考えれている(第11図参照)つまり、東京層は武蔵野砂礫層に比べて厚くて広く分布し、武蔵野砂礫層はそれを不整合に切ってのる、というわけである。

 東京層は東京・千葉・埼玉の地域で調べると厚さ一〇〇メートルに及ぶ堆積物で、その中間にはしばしば東京礫層とよばれている砂礫層がはさまれている。この東京礫層の下位の東京層は下部東京層ないし江戸川層とよばれることが多い。これに対して、上位のものは上部東京層とよばれる。区内では、上部東京層は広いが、下部東京層は南の地域にしか分布していないと考えられている。

 下部東京層の下位にくるものが、三浦層群とよばれる、かなり固結した泥岩層である。区内全域の地下深くに埋もれている。そしてその厚さは数百メートル以上におよび、その下にどんな地層があるかは、まだ確認されていない。

 地層の重なり方には、整合関係と不整合関係の二種がある。後者は下位の地層が陸化浸食されたのちに、上位の地層が堆積したという経過に基づく地層間の関係である。前者はたえず堆積が進行する環境下(たとえば海底)におかれ、堆積の不連続はなかったと認められる関係である。後者については下位の地層が傾いていたり、境界面が浸食作用でつくられた凹凸をもっている場合、実際の露頭で調べるときには、それを確定することはたやすい。しかし、若い二枚の地層が水平に重なっている場合、整合・不整合の関係はなかなか断定しにくいものである。

 三浦層群の上に重なる地層は、区内では場所によってずいぶん異なり、下部東京層の場合もあるし、東京礫層、あるいは武蔵野礫層の場合もある。三浦層群とその上位の地層との間は大きな不整合である。下部東京層と東京礫層との関係は、あまり明確でない。後述のように、不整合的関係を考えさせる資料もある。

 一般に深層ほど観察例が少なくなるし、試錐の結果の分析もむずかしくなるので知見はとぼしくなる。東京層については、従来多くの意見を異にする層位学的・古生物学的報告があった。地層名や他の地域との対比についても、変遷があり、いまなお論議の余地は多いといわざるをえない。