東京層

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三浦層群をおおって広く分布するシルト・砂・礫からなる地層は、矢部長克以来、東京層とよばれてきた。当区内では西部の林業試験場付近を除くとたいていどこの地下にも存在する。ことに、露頭が出現しやすいのは、目黒川左岸の高輪台の崖で、大正年間から昭和の初めころまでは、八ツ山切通し、居木橋・大崎袖ヶ崎などに、よく露出していたという。最近では、五反田駅北方のビル工事の根切り穴に、シルト層・砂層が観察された。また当区南部の荏原台北縁の斜面では、標高一三~一四メートル以下の高さに、東京層の砂やシルト層の一部がみられることがある。

 この東京層は、当区内ではせいぜい二〇ないし三〇メートルの厚さしかないが、東京湾の奥部の方向に厚さを増し、一〇〇メートルを越す。こうした厚い堆積物が一連の(整合的な)地層であるのか、不整合面によりいくつかに分けられるかは、この時代の地史を語る上には重要な点である。

 東京礫層は、目黒区中・西部などの、荏原台の地下では、直接三浦層群の上に、波食台性の堆積物としてのっている(4)。これは北東方向に深さを増すが、そこでは三浦層群より新しい下部東京層の上にのるようになる。両者の層序関係については、従来は整合であると考えられたが、多くの試錐資料をあつめた松田磐余氏の検討(未公表史料)では、東京礫層とそれに整合にのる上部東京層が、下部東京層と思われるものをえぐった谷の中に堆積すると解釈される場合がある。また東京礫層と一括された礫層も層準を異にすると思われる場合もある。武蔵野台地北部の荒川に面した崖に露出する東京層の特色は、上部東京層と異なって多くの軽石片を含むことであり、岩相からみて下部東京層にあたると考えられる。また、横浜や大磯丘陵、あるいは千葉・木更津の各地域では、上部東京層に対比される下末吉層とその下位の地層とはいちじるしい不整合関係にある。また下部東京層に相当する軽石を多く含む地層も、さらに三~四層に不整合面によって分けられるのである。

 下部東京層から上部東京層にいたる時代には、横浜・木更津付近のみならず、当区の地域でもいったん陸化し、河川の浸食を受け、さらに東京礫層、上部東京層をためる海が浸入してきたと考えられるようである。

 東京礫層がどのような環境下で堆積したかは、充分にはわかっていないが、この名でよばれるものの一部は波食台上の堆積物である。目黒区大岡山の呑川べりのところで、穿孔貝の跡を刻んだ三浦層群の上にうすく堆積しているからである。従来、このような礫層が東京都心の方へ深まりながらつづくと解釈されたが、一部にみられる深い位置の礫層は、下部東京層をえぐった谷のなかに堆積するという可能性をもつ。上部東京層すなわち下末吉層の層相変化と、その堆積に関係した海面変化の様子が、横浜や大磯丘陵などでわかってきたので、今後はそれを踏まえて、試錐資料の詳しい解釈にあたる必要があろう。

 上部東京層の岩相は、下部から上部にいくにつれ砂・シルト互層・粗粒の砂礫とかわることが多いので、おおざっぱにみると、当区周辺では東京礫層の堆積後、海が深まり、ふたたび浅くなったとみなされる。

 上部東京層の上には、従来渋谷粘土層とよばれていた火山灰質粘土がのる。これは中に含まれている軽石などから下末吉火山灰層に対比できる。目黒・渋谷・新宿、あるいは桜新町などの、当区より西部の地域では下末吉火山灰は明らかに風成で陸上堆積した岩相を示すが、当区では多くの場合、下部は当時の入江ないし、海岸部の沼地のような水域に降下堆積したと考えられる。試錐のコアをみると、粘土化がいちじるしいのみならず、炭質物や砂などが混在するからである。

 またこの火山灰質粘土層は水をとおしにくいが、いったん水を含むと膨潤し、軟弱化する性質をもつ。そのため切りとりの法面(のりめん)にこれがあらわれると、ここから法面崩壊が起こる場合があると報告されている。