下部東京層が堆積した海域は、その後海面低下にともなって縮小していった。もっとも海退した時期の絶対年代はまだ測られていないが、多摩火山灰層最上部の鍵層うわばみ軽石が、この時期につくられた谷斜面にはい下りるように堆積しているから、だいたいこの軽石降下期にあたると考えられる(1)。下末吉火山灰のもっとも古い年代が一三万年前であるから、うわばみ軽石までの厚さから推して、最大海退期は一五万年前より古く一八万年より新しいと考えられる。
前述のように、東京礫層とよばれる上部東京層の最下部を占める地層はこの海退期に、主に河川から供給されてたまったものらしい。
いったん大きく退いた海は、その後ふたたび拡大するようになった。上部東京層すなわち下末吉層であらわされる海である。これは第14図cのように、もっとも拡がった時期には関東平野をおおい、現在の海抜五〇メートル以下の土地はほとんど水没した。東京・横浜付近の当時の海岸線は吉祥寺付近から溝口・横浜西部の保土ヶ谷へとつづいていた。
この海の拡大(海進)は、下末吉層の名をとって下末吉海進と呼ばれている。海進の最盛期は、前述のように、下末吉層を直接おおう鍵火山灰層の年代からおよそ一三万年前と考えられる。この鍵火山灰は、西では大磯丘陵東部、高座丘陵、さらに下末吉台地・淀橋台・荏原台、それに千葉県下の下総台地の各地で、いずれも海成層の直上に堆積している。つまり、この鍵火山灰が降下する直前に、拡大の一途をたどっていた海が一転して縮小(海退)に向かうようになり、どこでもほゞ同時に海岸平野が現出したことを物語っている。こうした広域にわたって同時に海進海退がみられたことは、地殻の昇降運動ではなかなか説明がつかない。やはり世界的な海面の昇降運動に原因を求めた方がよいと考えられる。地殻運動は一般に、局地的に、しかも隆起か沈降のいずれか一方向の運動が長期間継続的に起こる、という特徴があるからである。いっぽう、海水面の昇降運動が間氷期、氷期の交替をもたらすグローバルな気候変化に基づくらしいという資料は、下末吉層のなかにも求められる(2)。すなわち、下末吉層下部から産出する有孔虫や軟体動物は一般に冷たい海水温を示すが、中部から上部では暖かい水温を示すものにうつり変わっている。前述の品川貝層は層位的には問題があるが、その組成は暖流の入ってくる海を示している。また植物遺体や花粉の資料でも、下末吉層の中・上部は温暖な植生相を示すが、これをおおう火山灰中の泥炭などからは、寒冷なものが見出されている。
このように、下末吉海進は世界的に対比できる重要なできごとであった。欧米の氷期・間氷期との対応については、従来から論議がやかましかったが、下末吉面の年代、それにひきつづく時代の海面変化などの資料(3)、最近発表されたヨーロッパ=アルプスやロッキーの氷河堆積物の編年(4)などを参考にすると、ヨーロッパ=アルプスのミンデル=リス間氷期、北米五大湖周辺のサンガモン間氷期に対比するのが妥当のように思われる。
さて、上部東京層を堆積した海が退いていく過程で、いよいよ品川区の高い台地、高輪台と荏原台が姿をあらわす。陸化したとはいっても、しばらくの間は湿地の環境にあったことは、粘土化したり炭質部を含む下末吉火山灰の堆積相から推定される。
南関東一円に火山灰を降らせていた箱根火山は、このころ品川の地からはどのように眺められたであろうか(5)。先述のとおり、多摩火山灰層の大部分は箱根の古期外輪山が成長していく過程でもたらされたものである。おそらく下部東京層の堆積が終わって、広く陸化され、東京礫層が堆積していたころ、この大火山(海抜二、七〇〇メートルくらいの高さをもっていた)は破壊的な大爆発をおこし、その山体の中央部が陥没した。そしてその後次の活動期までの間は活動は静かになったらしい。多摩火山灰層の最上部と下末吉火山灰層最下部との間には、時間をかけてつくられたとみられる埋没古土壌がみられるからである。上部東京層はこのころ、堆積を終えつつあった。そして高輪台や荏原台が陸化したころ、箱根では次の活動が始まっていた。新期楯状火山の形成である。だから、この当時、干上がったばかりの高輪台や荏原台の海岸平野に人が立って西方を望んだとするなら、カルデラができて低くなった山から、あらたな噴煙が立ちのぼる様子をみたことであろう。なお富士山はまだこのころには今のような大火山としては存在しなかった。低い愛鷹(あしたか)山のような火山があっただけである。
いま、新しい土地に人が立って、と仮定したが、このころ人間は猿人や原人の段階をすでに脱し、ネアンデルタール人(旧人)から現代人の直接の先祖であるクロマニヨン人(新人)にうつり変わろうとしていた。ただし、品川区を含む南関東の地にこのころ新人がいたかどうかはまだわかっていない。この時代の人骨や石器がまだ発掘されていないからである。