段丘化と火山灰の降下

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目黒台から多摩川が去ってから、目黒川や立会川の前身の谷は次第に台地をほり下げていった。三浦層群の堆積以来、何度となく海や川の浸食や堆積に見舞われた当地域も、これ以後、台地を新しい海や川の堆積物が埋めるということはなかった。台地の上には、火山灰がゆっくりと降下堆積をするだけであった。

 目黒台ができ上がったころからつもり始めた火山灰には、玄武岩質のスコリアが多い。それより古いものに安山岩質の軽石が多いのと様子を異にする。それは玄武岩質の火山、富士山が旺盛な活動を開始したことを意味する。ほぼ八万年ぐらい前のことである。箱根はこのころ、新しい楯状火山体の形成が一段落した段階であった。そしてそれからかなりたってから、クリヨウカン軽石(小原台軽石)をはじめとし、東京軽石で最盛期を迎える火砕流の噴出期に入る。富士の火山灰はこの時期にも頻繁に噴出していたようで、これら箱根の火山灰をはさんでいる。

 こうした火山灰がのちに風化し、含有する鉄分の酸化物で赤褐色を帯びたのが赤土である。このうち、東京軽石をはさむ下位の武蔵野火山灰層は、目黒川がいくらか掘られてから降下堆積し、上位の立川火山灰層はさらに深い谷ができてから堆積したものである。現在の目黒川右岸のような傾斜のゆるい谷斜面には武蔵野火山灰の大部分がのり、傾斜の比較的急な斜面には立川火山灰の一部がのる、といった事実がある。それは、これらの斜面がいつできたかを教えてくれる。御殿山や高輪台の南面する急崖には、赤土はあまりみられないようである。つまり、この急崖は新しい時代にも、あちこちで崖崩れなどをおこして後退しているのである。なお、多摩川沿いでは、武蔵野火山灰が降りつつあったときに、成城や等々力の一部にみられる中台段丘という武蔵野台地より低い、やや急勾配の段丘がつくられた。多摩川がどんどん下方への掘り込みをつづけていたのである。また、立川火山灰の降下期にも、立川・府中・調布の町がのる段丘(立川段丘群)ができ、さらに掘り込んで青柳段丘とよばれるものもできた。段丘が低くなるにつれ、その上をおおう火山灰はより新しいものとなる。