先述のように、武蔵野・立川火山灰の堆積時代には、武蔵野ではもっぱら河川のつくる地形が生じていた。海面の高度は、この全期間をつうじて今日の海水準よりもずっと(数十メートルも)低かったのである。その結果、東京湾は陸地となって、多摩川や荒川・利根川などの川が合流していた。ただ、この間、武蔵野火山灰と立川火山灰との境界の時代(およそ三万年前)には、海面は深さ数十メートルの低い位置から現海面下一〇ないし二〇メートルぐらいの位置にまで上がってきたようである。立川火山灰全層をのせる旧河床面は、それ以前、以後につくられた河床面より緩勾配であること、火山灰の断面に、このころの気候暖化を示唆する土壌ができていること(これが武蔵野・立川火山灰を分けた境界層)などから推定されるのである。世界的にもこの時期に海面は現海面付近まで上昇したという意見は多いし(1)、わが国でも関西の伊丹段丘や中京の熱田段丘、碧海台地がこの時代の産物だという考え方がある。隆起の盛んな地域では当時の海底は陸上に上がっているのかもしれない。
第一章の三節五項に、目黒川を埋める沖積層の下に、現海面よりも深い谷底があることをのべた。目黒川の河口付近で、この埋没谷底の深さは現海面下二五メートルの位置にあるから、当時の海面の高さはこれよりもっとさがっていたにちがいない。それはいったいいつごろのことであろうか。
この問題については、多摩川や相模川でしらべられてきた。それは沖積層下に埋もれている急勾配の谷底を上流に追いかけていって、どの河岸段丘につづくかを吟味し、その河岸段丘と火山灰との関係から、その時期を知ろうとする試みである。それによると、多摩川については、前述の青柳段丘より一段低い拝島段丘が、沖積層下埋没谷底につづくことがわかった(2)。この拝島段丘上には、赤土はなく、黒土しかのせていないので、それができた時代はごく新しい(沖積世の初期)ことになる。ところが、相模川では、立川火山灰の上部層をのせる望地面という段丘が、海面がもっとも低下したときにできたということがわかり(3)、多摩川と相模川とでは、時代がくい違うという結果が生じた。この原因は、相模川の方が多摩川よりも河口の平坦面がせまく、急に深くなっているため、海面の低下を川が敏感に反応してすぐに河床を掘り下げる煩向にあることなど、両河川のもつ地形条件に由来するようである。だから、いまのところ、多摩川より相模川の方が海面の最低下期についてより詳しい資料を提供すると考えられている(4)。厳密なことはまだいえないが、赤土の時代でもっとも海面が低下したのは、立川火山灰のほゞ中部の層準、絶対年代にしておよそ二万年前、あるいはそれより多少若い時代のようである。
海面変化と気候変化とがよく対応することは、いままで何回ものべた。この二万年前の時期もその例外ではない。立川火山灰の断面をていねいにみると、その中部の層準には、地層がひどく乱れて堆積しているところがある。それは火山灰の厚い多摩川以西の地域でよくわかる。乱れの状態はまるで波頭状で、下の火山灰が波をうって上の火山灰に入りまじり、上の火山灰も下の火山灰のなかに小塊をなしてまじり込むといった様子である。これと似た火山灰の堆積状態は、北海道のような寒冷地でしばしばみられ、はげしい凍結融解によって生じたと解釈されている。そこで、南関東でも、この層準の時期に相当寒冷な気候に遭遇したと考えられるのである。
ところで、この波頭のみられる層準の年代については、赤土中に含まれる腐植の放射性炭素法による年代がいくつか測られている(4)。それによると、だいたい二万年前後とみつもられる。先述の相模川望地段丘面は、これよりやや新しい火山灰が降った時代につくられた。
赤土の中には、過去の植物遺体や花粉はなかなかみつからない。初めからなかったのではなくて、酸性のつよい土のために分解してしまったためであろう。ところが、武蔵野の一部に、立川火山灰層の上部が降下していたときに、沼地があって、泥炭ができつつあったというところがみつかっている。当区内でも、たとえば戸越公園付近や立会川の一部などに、立川火山灰にはさまれる泥炭層のあることが期待できる。これらのなかで詳しく調査されたのは、板橋区江古田の江古田植物化石層である(5)。これは、カラマツ・オオシラビソ・トウヒ・コメツガ・チョウセンゴヨウ・ブナなど、いまは北関東の日光戦場ヶ原など海抜一、〇〇〇メートル以上のところに生育する樹種を含む。江古田植物化石層は何層かあって、それらの層位や年代についての細かい点になると問題はあるが、大ざっぱにいって、立川火山灰上部層の堆積時代、つまり二万年から一万数千年前のころである。江古田とほとんど変わらない条件下にある当品川区でも、こうした樹木の生育を許した気温の低い時代があったと考えられる。
二万年ないし一万数千年の昔、品川区からはるか西を望むと、日本アルプスでは山頂部に氷河がひかり、丹沢山地では山頂部に高山植物が生え、そしてこのあたりの低地にも、亜寒帯ないし冷温帯の植物が生育していたといった図が描けるのである。また当時の海岸線は、いまの浦賀水道あたり、現海面下一〇〇メートルの位置にあった。したがって、東京湾はすっかり干上がり、そこを古東京川とよばれる関東地方西部全域の水を集める大河川が流れていた。そして目黒川なども、台地をいまよりずっと深く刻んでいたという図(第14図e)もつけ加えておこう。
立川火山灰で代表されるこうした寒冷期ないし海面低下期は、世界的にも認められ、ウルム氷期とよばれている。これはおよそ七万年前から始まり、一・一万年前に終わったとされている。だから、品川区の地史にあてはめると目黒台形成直後からこの時期に入り、沖積層の上部がたまるころまでの時代であろう。ただし、氷期という言葉からうけるイメージは、この全期間ずっと寒冷であったのではなく、ときどき暖かい気候の時期がはさまれていたらしい。それは前述の三万年前に海面上昇期があったことのみでなく、火山灰層との層位関係がわかる地層から出た植物化石に、クリやカシなどの、比較的暖かい気候のもとで生育する樹種が見出されていることからもわかる。