二万年前ごろの海面のもっとも下がった時期から、次第に気候は暖化の方向に向かい、それにともない海面は上昇してきた。最近のカナダの大陸氷の変遷の報告などによると、一万五千年前までは、大陸氷の後退は一進一退をくり返しておそく、それ以後実に急速に後退したという。海面の上昇の経過もおそらくこれにテンポを合わせたにちがいない。そして先述の一万年前のころには現海面下二〇メートルぐらいの位置に海面があったといわれている。品川区大井海岸の沖積層の基底には深さ二〇メートルの位置に平らな波食台と思えるものがあるが、これは多分一万年前ごろの比較的海面の停滞していた時期につくられたものと思える。
その後、ふたたび海面は上昇し、沖積層を堆積した。区内にある厚さ二〇メートルぐらいの沖積層はほとんどこの時期にたまったものと考えられる。しかし、江東地区のように沖積層がもっと厚いところでは、二〇メートル以深の地層は、一万年前より前に、つまり更新世末期に、海面が上昇するにつれてたまったとみざるを得ない。広意の沖積層は、時代的には沖積世のみの地層に限定せず、最終氷期以後の海進(後氷期海進)に堆積したものを含んでいる。そうした場合には、沖積世にたまったものは上部沖積層とよばれている。
後氷期の海進が最盛期に達したのは、縄文時代の貝塚の分布に関する研究によると、およそ六千年ないし五千年の縄文前期のころである。縄文前期の貝塚は、他の時期の貝塚に比べてもっとも内陸側に分布するからである。品川区内でも、目黒川に沿って上大崎にこの時代と考えられる土器を伴う貝塚がある。貝塚のある台地直下の沖積地は、貝を採集した海が入り込んでいたわけである。
この時代の海は、目黒川に沿って、少なくとも目黒区との境付近まで及んだことは亀甲橋のところでカキの化石が見出されたことから確かである。上昇した海面の高さは、海抜三ないし四メートルぐらいに達したであろう。いっぽう立会川に沿ってはほとんど海は入り込まなかった。また、海岸平野では、大森貝塚の位置から知られるように(第15図参照)、台地直下に海岸線があった。このころの古地理図は第14図fに示される。
縄文前期に最高に達した海進は、その後反転してゆっくり退いていった。そのあとに海岸平野や目黒川の沖積平野があらわれた。このころの海面変化については、弥生文化期のころふたたび小海進があったとか、細微な点についても論議されているが、大まかにみれは、停滞しながら現海面の高さに近づいていったといえよう。
大森駅の大井町寄りのところに,有名な大森貝塚がある。この写真でわかるように,貝塚は台地の縁のところに位置している。東海道線の線路敷から右手の方はひとつづきの沖積低地で,ちょうどこれと台地との境のところに線路が敷設された。つまり縄文前期の時代にはこの線路ぎわまで波が打ち寄せており,台地に住んでいた人々は,この海から貝をとっていた,というわけである。