東京では天正十八年(一五九〇)の徳川家康の江戸城入府から、明治までの約二八〇年間に、一二〇回を越える河川の氾濫による水害と、二〇回に近い高潮をともなう水害を受けたという。また、明治に入ってから現在まで、河川氾濫のうち比較的被害のいちじるしかった水害だけでも三〇回に近く、高潮による被害も十数回経験している(4)。これらの水害でいちじるしい被害が発生するのは、利根川と荒川の氾濫による場合と、東京湾からの高潮が侵入した場合である。いずれの場合も、東京下町がいちじるしい被害を受けてきた。
幸いにも、品川区は海に面してはいるが、大河川の下流部の低地に位置しているわけではなく、そのうえ、台地がかなりの面積を占めているので、大被害は受けていない。品川区に発生する水害は、目黒川と立会川の氾濫、東京湾の高潮、それに内水氾濫による被害である。
江戸時代には明治前期の地形図からも明らかなように、市街地を形成していたのは品川宿周辺だけである。したがって、被害が比較的大規模に発生するのはこの地域だけで、他は農作物の被害が主である。高潮による水害は寛保二年(一七四二)、文政六年(一八二三)、安政三年(一八五六)に品川宿で発生したことが記録されているが詳細は不明である。もちろん、その他に江戸に大被害を出している延宝八年(一六八〇)、寛政三年(一七九一、八月と九月の二回)などの高潮の際にも、被害が発生していたと考えてまちがいないであろう。
内水氾濫や河川氾濫についての記録はほとんどないが、明治以降の記録からもわかるように、毎年といってよいほど目黒川や立会川は氾濫していたとみてよいであろう。