明治・大正期の水害

82 ~ 84

明治の中期を過ぎると市街地は次第に拡がり、明治後期には海岸低地はほぼ全域が市街化され、目黒川低地内でも住宅地が拡大している。その結果、水害危険地域への市街地の進出という形で被害地域が拡大している。

 明治・大正期の水害については、当時の新聞記事や役場の報告をもとに、品川町史にまとめられている(5)。目黒川流域の水害の様相の特徴が現われているので抄録しておきたい。

 明治十八年七月一日、連日の霖雨に台風による豪雨が重なり、目黒川が増水して各地で出水している。目黒川河口の北品川宿および南品川宿から、目黒川の谷底低地沿いに居木橋、上下大崎村、谷山(ややま)村、桐ヶ谷村が冠水し、冠水地域は下目黒村まで達している。

 明治三十一年六月四日の夜から五日にかけての熱帯性低気圧による雨で、目黒川が出水している。北品川では浸水家屋四〇戸を出し、浸水深は六尺と記録されている。

 明治三十五年八月二十三日の豪雨では荏川橋付近で出水している。

 明治四十年九月十七日には、台風による豪雨で目黒川は八尺余増水し、大崎・目黒・品川の三町村で計三四戸の浸水家屋が出た。

 明治四十一年九月三十日にも豪雨により目黒川が氾濫している。北品川の東海寺付近から南品川の荏原神社付近にかけて五二戸、大崎町居木橋付近では三七戸の浸水家屋を出している。

 明治四十三年八月十日には雨が八日から連続したために被害が大きくなり、四四八戸の被害家屋を出している。目黒川の氾濫による出水は南北天王付近、東海寺付近、長者町・南馬場・北馬場で床上二尺余となっている。また、河口近くの砂洲上にあるため目黒川の氾濫ではあまり被害が発生しない猟師町でも被害が出ている。

 明治四十四年七月二十六日には台風により高潮が発生している。猟師町から南品川の沿岸部にかけて浸水家屋四八二戸を出している。また、八月十日には台風による豪雨で目黒川が氾濫している。

 明治四十五年七月十六日にも台風による豪雨により目黒川は出水している。

 大正六年九月三十日には大型台風により高潮災害をともなう水害が発生している。高潮による被害は品川から千葉にいたる沿岸部でいちじるしかった。被害総数は死者五〇四人、行方不明五八人、全壊四、〇一九戸、半壊四、七一六戸、流失一、〇八七戸、床上浸水約一三万戸、床下浸水約五万戸であった。品川区では猟師町から真浦・大井浜川・鈴ヶ森に至る沿岸で被害がいちじるしかった。高潮による潮位は品川信号所で三・二メートルに達している。高潮は午前二時と三時の二回発生し、三時の高潮では猟師町で十数戸が流出し、四名が溺死している。品川町内の被害は品川町役場の報告によると、死者四名、負傷者三九名、流失二三戸、全壊五一戸、半壊六六戸、床上浸水七二二戸となっている。

 これらの記録からは、目黒川が現在の東海道本線から下流、荏原神社付近にかけてまでの地域でしばしば氾濫して被害を出したことが読みとれる。また、降雨量が多い場合には被害範囲が拡大し、より河口部の猟師町、より上流部の居木橋や上下大崎付近にも被害がでている。これは、目黒川の谷底低地では、かなりの大雨が降らないかぎり氾濫をしなかったことを意味するわけではない。家屋の被害を主にみているからにすぎない。谷底低地では微高地を利用したり、盛土をしたりして家屋を建てているので、かなりの大雨にならないと家屋は浸水しない。これに反して、海岸低地では砂洲上に立地していた品川宿を中心にして、その周辺の後背湿地性の低地に住宅地が連続して拡大したために、被害の頻度が高くなったのであろう。

 その他、もっとも海側に突出している猟師町や、その南の海岸沿いの地域で高潮による大きな被害を出していることも特徴的である。

 立会川についても、目黒川で氾濫が発生している場合には同様に氾濫していたとみるべきであろう。また、目黒川についても同様であるが、氾濫は品川町史に記載されている例だけにとどまらず、小規模なものは頻発していたと考えられる。たとえば、大正十四年十一月に、大井町会議長および平塚村会議長から東京府知事にあてて出された「立会川を府費支弁の河川に編入の件に関する意見書」のなかには、大正十四年八月五日、二十六日、十月一日の三回にわたって立会川が氾濫したことが書かれている(6)。