昭和に入ると水害の様相が変化してくる。昭和四年五月二十三日(品川町史には六月二十三日とあるが、台風による豪雨は五月二十三日に発生している)には台風による豪雨で品川町では下水用水が氾濫して、浸水家屋を出している。床下浸水が七七〇戸、床上浸水が一四〇戸で、浸水深は路上二~四尺であった(7)。大正期までは水害がしばしば発生していたのは、東海道本線より下流側の目黒川沿岸で、浸水の原因も目黒川の氾濫であった。しかし、この水害の被害地は東海道本線より上流側に限られ、被害地は三ヵ所に分散している。また、浸水の原因も目黒川の氾濫ではなく下水用水の氾濫となっている。これは、目黒川の改修工事が進み、新たな放水路が完成するなどして、目黒川下流部での氾濫がなくなったが、一方では、下水道などの排水系統の不備により、内水氾濫が発生していることを意味している。
立会川でも水害の様相が変わっている。昭和六年五月十六日の降雨により床上・床下浸水合わせて一、七八九戸の被害を出したあとに、同年六月に大井町長から東京府知事あてに「立会川改修工事促進に関する請願書」が出されている。その文書によれば、被害発生原因の一つに河川の改修工事の不手際があげられている。それは改修工事が行なわれる区間が分割されているために、未改修区間での被害が増大しているという趣旨のものである。したがって、改修工事は下流より順次上流に向けて進めて欲しいという要望を出している(8)。
昭和期前半の水害には、都市化の進行過程でみられるいくつかの現象があらわれている。河川の改修工事により一部の地域では水害発生の頻度が減少したが、そのため、より被害の程度が大きくなった地域が出現したり、水害発生地域が移動するなどしている。住宅地の拡大は水害危険地域を拡大しているし、内水氾濫による被害を発生させる原因にもなっている。なお、目黒川河口前面をはじめ、沿岸部の埋立てにより、高潮の危険地域が沿岸部から埋立地に移っている。そのため、風向の影響もあろうが、昭和十三年四月十四日と九月一日には東京下町では高潮被害が発生したにもかかわらず、品川区内には発生していない。