先土器時代は、旧石器時代にほぼ相当して把握される文化内容を有するものであるが、その大部分は後期旧石器時代すなわち洪積世末期に位置づけられるものである。この時代における日本列島の人類居住の問題については、化石人骨の研究による人類学的研究と石器の研究にもとづく考古学的研究とに大別される。化石人骨については、昭和二十年代に明石人と命名された兵庫県西八木(やぎ)海岸よりの採集資料によって注目されたが、さらにそれの確実な資料として、牛川人(愛知県豊橋市)・三ケ日(みっかび)人(静岡県引佐郡)・浜北人(静岡県浜北市)が出土層位および化石骨自体の特徴と伴出獣骨との対比検討を傍証として有力視され、日本における洪積世人類の居住が実証された(鈴木尚『日本人の骨』)。それに対して考古学的な研究は、群馬県岩宿遺跡の発見以来、全国的に洪積世の後期に比定される地層中より旧石器的な形態を有する各種の石器が検出され、地域ごとにそれの編年の大綱が確立されつつある(芹沢長介『石器時代の日本』)。それらの一連の石器群は、剥片(はくへん)石器を主体とするものであって、その末葉にはヨーロッパなどの地域と同じく細石器(さいせっき)文化の痕跡も認められて、その展開過程が旧大陸などの後期旧石器文化と同じであることが知られてきた。
このような先土器時代の石器群は、幾つかの発達段階があり、一万三千年から一万年以前の縄文時代への移行期に近い過渡期の文化(中石器時代あるいは旧石器時代晩期)と、それに先行する三万年から一万三千年以前の文化(旧石器時代後期並行)とに大別されるが、さらに近ごろの学界の趨勢を見ると、それ以前すなわち約三万年より古い文化(旧石器時代前期並行)の存在に関する問題も論議されるにいたっている。ヨーロッパにおける旧石器時代の研究にもとづけば、三万年より以前は中部旧石器時代(三万年~八万年以前)と下部旧石器時代(八万年~五十万年以前)に大別され、前者は地質学上のウルム氷期前半、後者はミンデル氷期・ホルスタイン間氷期・リス氷期・エーム間氷期にかけての時代にあたる。この時代の人類は旧人および原人であり、ネアンデルタール人およびピテカントロプスが活躍していたころである。日本におけるこの時代の研究は、近年ようやく着手された段階にあるが、大分県速見(はやみ)郡早水(そうず)台・栃木県栃木市星野・山形県西置賜(おきたま)郡中津川の各遺跡などにおいて、三万年以前に遡る石器が出土したと主張する学者もある。しかし、一方にはそれを否定する学者もあり、それの存否をめぐって論議が重ねられているのが現状である。
それに対して、ヨーロッパの上部旧石器時代(約一万三千年~三万年以前)すなわち旧石器時代の後期に相当する文化の存在については、ほぼ定説化している。したがって、ホモ=サピエンスとよばれる新人が日本に居住していたことは確実視されているわけである。この時代は、地質学上の最終氷期の後半にあたり、かなりの気候変化がくり返され、大形の動物群(マンモス・野牛など)が生息していた時期にあたる。牛川・三ヶ日・浜北人とよばれる新人に属するグループの人類が生活したころであり、日本における先土器文化の内容が明瞭に把握されてくるのはまさにこの時代である。三万年より一万三千年以前にかけて展開したこの時代の発達段階を示す遺物は、現在のところ石器に限定されているが、それら石器の出土層位および形態的特徴よりして、ほぼ三時期に細別され、それは、第一期―三万年~二万年以前、第二期―二万年~一万五千年以前、第三期―一万五千年~一万三千年以前とされている(芹沢長介「日本の石器時代」『科学』三十九―一)。
第一期の石器は、縦長の剥片を利用した石刃(せきじん)の原初的なものが主体をなし、第二期になると地域ごとに形態を異にするナイフ形石器が顕著に出現し、第三期にいたって細石器とよばれる小形の石器が盛行する。これら各時期の石器の原材には、黒曜石(こくようせき)・硬質頁岩(けつがん)・安山岩・サヌカイトなどが見られ、それぞれの原産地を中心として発達した。第一期の遺跡は、関東地方西部を東の限界として西日本に分布しているが、第二期になると各種のナイフ形石器を代表とする地域性があらわれてくる。東北地方より中部地方の北半にかけて見られる杉久保型ナイフの文化圏、瀬戸内海を中心とする国府型ナイフの文化圏がそれであって、西南日本と東北日本にそれぞれ特徴的な石器と、それを作りだす技法が認められる。第三期になると、北海道東北部を中心とし東北地方および中部にまで分布する細石刃の文化と、北九州を中心とする細石刃文化とがあり、両者は異なる石器の製作技法を有するものであった。この時期の細石刃文化は、大陸文化の影響によって形成されたもので彼我の関連性を示している。
次の縄文時代への過渡期の文化は、地域性をもって各地に登場してくる。この時期を学者によっては、先土器時代の範疇に入れず、縄文時代のもっとも古い段階と説く場合もある。九州地方を中心とする細石刃文化の伝統のなかより出現した文化がその一であり、それの後半には隆線文(りゅうせんもん)土器とよばれる、わが国最古の土器が伴出する。しかし、九州を除いてはこの細石刃の文化は顕著な発達を見せずに、あらたに有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)と称する形態の石器および片刃の打製石斧(せきふ)を有する文化が、四国より本州・北海道にかけて分布するようになるが、四国より東北地方の南半にかけて分布する遺跡には、九州地方において細石刃と伴出した隆線文土器が伴うことがある。
日本における土器の発生は、この過渡期の文化のなかに見いだされるのである。
「土器の発明は、人類が化学変化を生活に応用した記念すべきことである」とはゴードン=チャイルド(イギリスの考古学者)の有名な言葉であるが、容器をもった人類文化がここに出現したのである。
以上のごとき先土器時代およびそれに後続する時期の人々は、住居を平地上に営むと同時に、洞穴を利用して生活していた。平地における住居の形状はまだ明らかにされていないが、焼石炉が東日本を中心として見出されているので、簡単な小屋がけ程度のものであったと考えられている。利器は、現在のところ石器のみ知られているが、恐らく木器あるいわ骨角器の類も使用されていたことであろう。石器の形態より考えるとき、当時における食料は、小形動物類を主体とし、植物質食料を併せとっていたことが察せられるが、それらの種目についてはまだ明らかになっていない。