草創期より早期の文化

125 ~ 128

草創期に位置づけられた隆線文(りゅうせんもん)土器は、北九州を中心とする地域および四国を含む本州西端付近より、東北地方の南半にかけての裏日本沿いの地域に分布している。前地域においては、細石器を伴い、後地域においては有舌尖頭器とよばれる石器を伴っている。ついで出現する爪形文(つめがたもん)土器・押捺縄文(おうなつじょもん)土器あるいは撚糸文(よりいともん)土器の時代になると、それぞれの土器を代表とする文化が、地域を異にして認められてくる。東北裏日本より中部地方の一部にかけて分布する押捺縄文土器、南関東を中心とする撚糸文土器、中部地方の一部より、西日本にかけて広く分布すると考えられている爪形文土器がその状態を示している。ただ北九州においては、前段階の隆線文土器についで爪形文土器が出現し、それには細石器が伴うことが知られているが、本州の爪形文土器文化には細石器が見られず、尖頭器・石鏃などを伴っている。そして、撚糸文土器には、局部磨製石斧(せきふ)と打製石斧が見られ、押捺縄文土器には、尖頭器状の打製石器と石鏃が認められる。このような草創期前半の土器群は、かなり複雑な様相を呈して分布し、とくに北九州における隆線文土器より爪形土器への展開は、ともに細石器を伴うことによって大陸文化との関連性が考えられている。

 このころにおける東京周辺の土器は、撚糸文土器群が主体をなしている。神奈川県横須賀市夏島貝塚は、撚糸文土器を出土する貝塚であるが、そこでは明らかに骨製釣針、イノシシ尺骨(しゃっこつ)製の刺突具などの漁具が認められ、漁撈活動が盛んであったことが示されている。石器としては、礫の一端を打ち欠いた礫器を主とし、磨石などを有している。当時における住居は、東京の多摩ニュータウン第五二遺跡における例よりみると方形の竪穴住居であった。集落構成の住居数は、多摩の場合は三軒が検出されているが同時存在の住居数はまだ明瞭ではない。

 この撚糸文土器を伴う文化の遺跡が、かつて、江坂輝弥氏によって西五反田五丁目三十二番地付近において発見されている(白崎高保「東京稲荷台先史遺跡」『古代文化』一二―八)。桐ヶ谷火葬場付近遺跡とよばれているこの遺跡の発掘調査は、ついにおこなわれずに現在にいたった結果、すでに湮滅し去り、その性格などについては不明であることが惜しまれるが、本遺跡こそ区内で確認された最古のものであるといえる。

 関東地方において撚糸文土器についで出現した土器は、無文土器と沈線文(ちんせんもん)土器である。このころになると、中部地方を西限として北海道を含めた東北日本の一帯に沈線文土器が分布し、また、中部地方より北関東地方の一部を分布の東限とする押型文(おしがたもん)土器が西南日本にあらわれてくる。中部地方より関東地方の西半にかけては、この両者が地域を同じくして分布し、文化の接触と融合化の傾向が認められている。土器はすべて尖底であり、石器には、東北日本に擦切磨製石斧・縦長の皮剥ぎ石器・箆(へら)状石器などが見られ、一方、西南日本には、打製石器として横形の皮剥ぎ石器が認められる。縄文のつけられた土器とともに、無文土器が出土した茨城県北相馬郡花輪台貝塚よりは、方形を呈する五軒の竪穴住居跡が発見され、骨器として鏃(やじり)・釣針・針、石器として鏃が存在したことは土偶および装身具(牙製耳飾・貝製装身具)の出土したこととともに、文化内容がかなり進んだ姿を示している。無文土器は、ついで沈線文土器に移行し、前段階と同じく貝塚の形成が認められる。千葉県香取郡城ノ台貝塚はこのころに築成されたものであり、貝層中にシカ・イノシシ・タヌキ・ウサギ・イルカ、そしてキジ・ツルの獣鳥骨が包含され、魚骨としてマダイ・エイが見られた。石器に磨製石斧・磨石、骨器に尖頭器が見られたが、骨類・生産道具ともにその量は決して多くはなかった。さらに条痕文(じょうこんもん)土器の時代になると、当時の海岸線に沿って多くの貝塚が築成される。神奈川県横須賀市茅山(かやま)貝塚は、その顕著な例の一つとして有名である。貝層中よりはイルカ・イノシシ・シカのほか、スズキ・エイ・クロダイ・レンコダイ・カマス・カジキマグロなどが見られ、さらにイヌも認められている。このなかでイノシシとシカの発見された部分に歯・牙・角があったことは注目されよう。石器には、礫器の類が多く、骨角器には若干の刺突具が見られる程度であり、概して貧弱な道具を有する文化であったらしい。このことは、貝塚を伴わない内陸の遺跡においても、剥片利用の石器が検出される状態によってもうかがうことができる。

 以上のような沈線文および条痕文土器を出土する遺跡は、大崎二丁目より三丁目にかけて存在する居木橋(いるきばし)貝塚の貝層下より発見されている。居木橋貝塚は、後述するように前期の後半に築成されたものであるが、その貝塚形成以前に遺跡が存在していたことが知られ、わずかの土器片が検出されている。