大崎二丁目六番地を中心として七番地に及び、さらに三丁目十四番地、西品川三丁目五~六番地の範囲に存在していた貝塚を伴う遺跡である。この貝塚については古く明治三十七年に江見忠功により紹介され(「石器時代遺物発見地名表」『東京人類学会雑誌』一九―二一八)、その後、部分的な発掘が試みられたこともあったが(「学界点描」『貝塚』三、昭和十三年十二月刊)、昭和二十八年にいたって立正大学考古学研究室の指導で、立正高校考古学研究会により発掘され、一軒の竪穴住居跡が大崎二丁目六番地において発見された(坂詰秀一『古代の品川』)。明治年間より学界に知られてきたため、多くの研究者が来訪し表面採集的調査がかなり行なわれてきたようであるが、その報告についてはほとんど発表されず、昭和二十八年の発掘実施の際にあわせて行なわれた分布調査によって、その分布状態が把握された。その調査の段階においても、付近は家屋が密集し、わずかに小原文太郎氏の好意によって、同氏邸の庭の一部が調査されたに過ぎなかった。
この貝塚は、A・B・C・Dの四ヵ所の小貝塚と、それに有機的関係を有していたであろう集落より構成されている。これらのなかで発掘調査が実施されたのは、B貝塚の一部にとどまり、またA貝塚は、工事中における貝層の出現により、一部の調査が試みられたに過ぎなかった。B貝塚の場合、貝塚を構成する貝類は、ハイガイ・サルボウ・シオフキが多く、ついでハマグリ・アサリ・カキツバタ・カガミガイ・スミノエ・オオノガイ・アカニシ・ツメタガイ・イタボガキ・バイがあり、少量ではあるが、マテガイ・レイシ・イボウミニナ・キサゴ・ツノガイ・ヒダリマキマイマイなど計一九種が見られた。また、A貝塚には、ハイガイ・サルボウ・シオフキ・ハマグリが多く、アサリ・カキ・キシャゴ・オオノガイ・アカニシ・カガミガイの一〇種が検出されている。動物類としてはA貝塚よりシカ、魚類としてはB貝塚よりタイの出土が知られている。土・石器の類は、A貝塚より諸磯A式土器と打製石斧が出土し、B貝塚よりは諸磯A・B式土器および打製磨製石器・骨製品が検出されたほか、A貝塚よりは関山・黒浜式、B貝塚の下層より早期の田戸下層式・同上層式・茅山式・花積下層式、そして貝層中および付近より前期の関山式・黒浜式の破片が見出されている。かつてA貝塚より石皿の破片が出土したことが報告されているが、この石皿は付近に存在する後期土器の遺跡よりの出土品である可能性があり、C貝塚は、以前の記録をみると諸磯B式などの土器を出土するものであったらしい。D貝塚についてはまったく不明であるが、付近に前期の土器片が認められるので、他の貝塚と同じころに築成されたものであると考えられる。このように四ヵ所の貝塚より構成され、それらの時期は、ほぼ前期の後半に位置づけされる遺跡であるといえるであろう。
竪穴住居跡は、B貝塚の一部より検出された。形状は、半円半方形を呈するもので、東西五メートル、南北五・五メートルを有するローム層を約三〇センチ掘りくぼめて床面を作り、その中央北寄りに素掘り炉が認められた。柱穴は、東北のコーナーにそって小さなピットがならび、さらにそれの列と並行して炉との間にも一列認められる。また。南のコーナーにそっても二、三の小さなピットが認められたが、主柱穴の見られるようなものは存在していない。床面の中央南寄りと西南寄りとの二ヵ所に大きな攪乱部があり、その部分は完全に破壊されていた。竪穴の床面上よりは土器の破片が若干出土したにすぎないが、その埋没土壌と竪穴を覆っている貝層中よりは、前期後半の諸磯A式およびB式土器が見られた。そこで、竪穴の時期を前期の後半と判断したのである。
四ヵ所の貝塚中、竪穴住居跡の存在が確認されたのはB貝塚においてであったが、他の貝塚においても至近地に竪穴住居跡の存在が当然考えられる。
このように本貝塚は、小規模な貝塚を伴う集落跡であるとすることができるのであるが、集落の規模についてはその貝塚の分布状態より、おそらく円形に配置されていた住居より構成されるものであったようである。食料は貝類を主体とし、A貝塚におけるシカ、B貝塚におけるタイの存在が示すように、狩猟と漁撈がおこなわれていたことが察せられる。しかし、それは規模において生産あるいは再生産の遺物が僅少であることより、さして活発であったとはいえないであろう。