居木橋貝塚と時を同じくして、目黒川の谷を隔って対岸にも集落が形成されていた。昭和の初頭(『日本石器時代地名表』第五版)および昭和九年ごろの調査(本田茂一「旧大崎町近傍土器石器出土地実地踏査地報告」『銅鐸』四)によれば、上大崎より東五反田および北品川にかけて、かなりの遺跡が点在していたようである。貝塚を伴うものとしては、上大崎三丁目および北品川五丁目に、それぞれ一ヵ所存在しており、土器と石器の類が採集されていた。さらに、上大崎三丁目の一帯、東五反田三丁目の宝塔寺付近、同じく清泉女子大学の敷地内、北品川五丁目付近にも遺跡が点在していた。これらの遺跡の多くは、前期に属する遺跡であったようであり、規模はいずれも小さなものであった。
これら前期の遺跡群、とくに貝塚の存在によって、往時における東京湾の海水が目黒川谷に侵入していたことが明らかであり、その後、後期にいたって海岸線が後退 していったことが知られる。