中期に入っても、その文化圏は前期と同じく六地域に認められるが、前期の文化を継承発展させ、それぞれ特性ある文化が展開した。とくに、関東・中部地方より北陸の一部にかけては、雄大な土器が出現し、それに伴って多量の石器が認められるようになる。一方、それ以外の地域文化はさして発展を見せず、生産用具の面においても際立った遺物を残していない。この中期の文化は、関東・中部地方において開花し、多種多様の形態の土器が作られ打製石斧とよばれているクワの機能をもつ石器が盛行した。また、石皿・磨石が多く認められるに反して、石鏃が少なく、狩猟よりも一種の原始農耕的な生産形態が発生したのではないか、という見解が発表されている。集落の規模も前期に対して拡大され、竪穴住居自体も大形の円形状を呈するものが見られるようになる。さらに、信仰遺物と考えられている土偶の多量出現、信仰関係遺跡、あるいは一種の墓地と考えられている配石遺跡の発達など、種々な面において大きな変容を見せるにいたる。また、土器の装飾として蛇類のモチーフがつけられたものが出現し、文化内容そのものの変化が、とくに前期の文化と対比することによってうかがわれるようになった。これら顕著な発達をとげた中期の遺跡は、山岳地帯において密集する傾向を示し、反対に海岸地域における遺跡の存在は減少する傾向にある。以上のような文化は、とくに中期の前半において認められるが、後半に入るとわずかずつではあるが、海岸地域にも進出し、中期の終末にいたるとかかる様相がよりいちじるしくなってくる。
東京付近においてもこのような傾向が認められ、中期の前半における遺跡は、三多摩の丘陵地域に多く存在している。そこでは、土掘り道具としての打製石斧が盛んに製作され、土偶も多く見られるなど、中部山岳地域における文化の影響が濃厚に認められる。
そのころ、品川区内においては一時定着的な生活が断絶したかのごとき観があったが、後半にいたって再び遺跡が少数ではあるが散在するようになる。中期後半に位置づけられている加曽利E式とよばれる土器を出土する遺跡が、前期の遺跡の近辺にあらわれる。同じく、前期文化の存在しなかった地にも出現し、それは、大井四丁目の西光寺付近、大井六丁目より大田区山王一丁目にかけて存在する大森貝塚付近に見ることができる。しかし、その遺跡は小規模であったらしく、出土する遺物に関する知見も、きわめて乏しい状態である。