大井六丁目の一部より、大田区山王一丁目にかけて分布する大森貝塚は、日本の考古学史上に有名な存在である。それは、いうまでもなく、明治十年にエドワード=シルヴェスター=モースによって発掘され、日本考古学の発祥の地となったからである。
この貝塚の発見についてモースは、その著『日本その日その日』(Japan Day By Day)中において
横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行ったとき、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当のKjoekkenmoedding(貝墟)だと認識した。私はメイン州の海岸で貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた(石川欣一訳)。
と述べている。モースは、明治維新政府が欧米技術・知識の移植を意図して招聘した学者として来日した動物学者であった。かれは、その後、在日中に動物学にとどまらず、人類学・考古学、さらに日本陶磁器の研究においても先駆的業績を挙げ、日本のそれぞれの学界に大きな影響をあたえたのであった。
かれは貝塚の本格的な発掘に先立って予備的な調査を試みた。前述書中の「大森に於ける古代の陶器と貝塚」の項に
「今日、ドクター・マレー、彼の通訳及び私は人夫二人をつれて大森の貝塚に行った。人夫は採集した物を何でも持って帰らせる為に連れて行ったのである。大森の駅からすこし歩いて現場に達すると共に、人夫達は耨(すき)で、我々は移植鏝(こて)で掘り始めた。二時間ばかりの間に我々は軌道に沿った深い溝を殆ど埋めたくらい多量の岩石を掘り崩し、そして陶器の破片その他を沢山手に入れた。泥にまみれ、暑い日盛りで昼飯を食いながら、人夫に向って、掘り崩した土をもとへ戻して置かぬと、我々は逮捕されると云ったら、彼等は即座に仕事にとりかかり、溝を綺麗にしたばかりでなく、それを耨で築堤へつみ上げ、上を完全にならし、小さな木や灌木を何本か植えたりしたので、我々がそこを掘りまわした形跡は何一つ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも堆積の上部で完全な甕二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと、骨製のもの一つを見つけた。」
と記述している。
発掘の報告書は、明治十二年に東京大学理学部紀要第一巻として『SHELL MOUNDS OF OM0RI』が刊行され、同年にそれが『大森介墟古物編』(理科会粋第一帙上冊、矢田部良吉訳)として訳出された。
さて、本貝塚には、現在その所在を示す石碑が二ヵ所に建っている。一は、大井六丁目三〇番地、二は、大田区山王一丁目三番地にある。前者は昭和四年十一月四日に除幕式がおこなわれたもので、殿村平右衛門氏の庭前にあたり、東京日日新聞(現在毎日新聞)社長の本山彦一が発起人で、岩川友太郎・石川千代松・大山柏・小金井良精・有坂〓蔵・佐々木忠次郎・富岡恒次郎・杉山寿栄男の諸学者が賛成人として碑面に名を連らねている。「大森貝塚」の横文字は本山、欧文題字は石川、設計は杉山、石工は吉田政五郎の諸氏であり、五ヵ月をかけて完成されたものである。二は、昭和五年四月十三日に除幕式がおこなわれたもので、臼井米二郎氏邸の一隅に存在する。この碑の建立は、東大名誉教授で昆虫学者であった佐々木忠次郎を中心として計画され、石川千代松・岩川友太郎・稲村坦元・井上清・原田淑人・浜田耕作・長谷部言人・穂積重遠・臼井米二郎・上田三平・荻野仲三郎・黒板勝美・矢吹活禅・松村暸・小金井良精・佐々木忠次郎・清野謙次・三上参次・宮岡恒次郎・柴田常恵・白井光太郎らが発起人となり、碑面にその氏名が刻され「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士 佐々木忠次郎書」と縦に書かれている。この二つの碑は、ともに貝塚の範囲にあり、そのいずれがモース発掘地であるかという問題より、このようにかなり広い範囲にわたる遺跡であることを示すものとしておいた方がよいであろう。
モースはその報告書「介墟概状」において、
大森介墟ハ東京ヲ距ル凡六マイル東京横浜間鉄道線ノ西ニ在リテ汽車ニ乗ル者大森停車場ヲ発シ僅ニ北シテ能ク窓内ヨリ之ヲ瞰ルヲ得ヘシ 即チ鉄道線其一部ニ亘テ線外ノ野ニ尽ク土器ノ砕片介殻ヲ散布ス 介墟ノ鉄道線ニ沿ヘル長ハ大約八十九メートルニシテ厚ハ其最ナル処ニ於テ四メートルアリ 又該線ヨリ西ノ方九十九メートルノ処ニモ一介墟アリ 但未タ彼此互ニ相通スルモノナルヤ否ヤ審ニセス 又此ヨリ南方ノ野ニモ嘗テ一介墟アリシト伝フレドモ今ハ耕種ノ地ト為リテ殆ンド其形跡ヲ失ヘリ 都テ此等ノ介墟ハ東京湾ノ水涯ヲ距ルコト殆ント半マイルニ在リ(矢田部良吉訳)。
と述べているが、調査時における状態を示す文として重要である。
貝塚は、標高一〇メートル以内の洪積丘陵の斜面下部にあり、一部沖積地にまでわたっている。前期後半の居木橋貝塚が標高約二〇メートルの洪積丘陵上の平坦部に存在するのに対して、このような後期後半の大森貝塚が標高の低い地に築成されていることは、海岸線の後退状態を、具体的に示す資料として認識されよう。貝塚を構成する貝類は、ハイガイ・イタボガキ・ハマグリ・アサリが多く、ツメタガイ・アカニシ・サルボウこれにつぎ、ほかにイボキサゴ・サザエ・スガイ・カクアイ・イワニシ・クリフレイシ・バイ・ムシロガイ・オニニシ・テングニシ・ナガニシ・カキ・イセシロガイ・カガミガイ・オキシジミ・シオツガイ・シオフキ・ミルクイ・マテガイ・オオノガイなどが見られた。また、魚類にエイ、爬虫類にウミガメの類、獣類にイノシシ・シカ・クジラ・クマ・オオカミ・イヌ・コウビザル・サルの骨が出土している(酒詰仲男『日本縄文石器時代食料総説』)。
土器は、後期前半の堀之内式・加曽利B式をへて、後半の安行I式・Ⅱ式におよび晩期の安行Ⅲa・Ⅲb・Ⅲc式も認められている。土製品には土偶・土版・滑車型耳飾などがあり、石製品に石斧の類・石鏃・石棒・石皿・磨石など、骨角製品に刺尖具の類が出土している。
人骨も出土したが、モースはそれが故意に砕断されていることより、食人風習の存在を提唱されたことは有名である。
以上のごとく大森貝塚の示す様相は、かなり複雑であるが、生業の主体は貝類の採集と狩猟および漁撈にあった。南関東において後~晩期の貝塚群が発達していた千葉県下における資料と比較すると、その規模において格段の差を示す小範囲のものであったが、洪積台地の麓に、細長く形成された貝塚の一つの型を示すものとして、注意さるべきものである。ただ残念なことは、住居跡の検出がついに果たされなかったことであり、それはモース発掘地付近を後年に発掘した、慶応義塾大学の調査の場合においても同様であった。したがって、住居区域は、貝塚の背面に見られる洪積丘陵上が考慮されなければならないであろう。当時の東京湾は、この貝塚に直面しており、貝塚の北側に湾入している小さな谷に面して、集落が形成されていたものと考えられる。