縄文文化は、農耕と巨石墓を伴わない新石器文化であるといわれてきた。しかし、最近における学界の動向は、中部山岳地帯に展開した中期の文化に農耕の存在を肯定し(藤森栄一『縄文農耕』)、一方、配石遺跡とよばれる自然石配置の遺跡をもって墓として把握される気運にある(斎藤忠「大湯環状列石と日本の縄文時代の類似遺構について」『北奥古代文化』三)。旧石器文化と新石器文化の相違を文化現象より見れば、一、土器の存否 二、石鏃の存否 三、農耕牧畜の存否 四、巨石墓の存否に主なる観点が設定されているが、三の農耕の存在を原始農耕として肯定し、四の存在をも肯定的に解釈する傾向が生じている。ただ牧畜の存在はまず否定さるべきである。このような立場にたてば、縄文新石器論がまさに成立する。しかしながら、卒直にこのように肯定するにはまだ資料が出揃っているわけではない。中期農耕論にしてもまだ充分に肯定される気運になく、また、配石遺跡巨石墓論もいぜんとして強い反対論がある(江坂輝弥「縄文時代の配石遺構について」『北奥古代文化』三)。
現在のところでは、区内の貝塚を中心とする遺跡の生業主体は、やはり採集と狩猟、それに漁撈を伴うものであったと考えた方がよいであろう。
集落は、主として竪穴住居より構成され、その同一時期の存在軒数は数軒程度と考えてよいであろう。時期と地域により若干の差異は存するにしても、大綱はそのようなものであった。墓制の面もその大部分が土壙中に遺体を葬る土壙墓が主体であり、晩期に入って、北海道地方において配石墓が見られるという現象はあるが、総じては土壙墓が優位を占めていた。それらには副葬品を伴わず、すべて同一な埋葬方法をもっていることによって、集落に見られる構成住居構造の同一性の現象とあいまって、階級差の発生は認められないのである。