採集・狩猟・漁撈を生業の主体とし、石器・骨角器を利器として展開してきた縄文文化は、後期の終末頃より晩期の初頭にかけて一段と整えられ、きわめて豊富な文化内容を具備するにいたる。その後、晩期の社会は、東日本においてさらに発展をとげ、東北地方一帯を中心とし、関東・中部地方を経て畿内の一部にまで、その特徴ある土器――いわゆる亀岡系の土器(大洞各式)――を進出せしめた。そのころの西日本は、いぜんとして相対的に劣勢の縄文文化が展開していたが、生業の面においてはかなりの行きづまりを将来していた。元来、縄文文化の展開は、その自然的条件にもとづく生業の基本的性格によって東日本に厚く、西日本に薄い傾向をもっているが、中期以降に入り、それが一段と目立ってくる。しかし、遺跡の立地、生産の道具、容器としての土器の発達は、それぞれの地域性に即して発達していた。晩期に入り、遺跡の立地が洪積丘陵上より沖積地に向けて下降してきたことは、やはり、それなりの意味のあることであった。とくにこのような傾向は、平野部に形成されている遺跡に顕著であるが、それは来たるべき新しい生業技術を容易にとり入れる結果的な準備体制でもあった。
紀元前三〇〇年ころ、北九州の一隅に新しい生産手段を具有した文化が成立する。水田農耕技術を有し、同時に鉄製品をもったこの新来の文化は、その地の伝統的文化である縄文文化と融合し、あらたな発展をとげていく。弥生式文化の伝来と、その時代の開始である。弥生式文化は、新らしい形態の石器を出現せしめ、それは太形蛤刃石斧・柱状片刃石斧・扁平小形片刃石斧・石庖丁・石剣・石鏃などの磨製品であった。また、同時に大形の打製石斧、小形の剥片石器も使用され、両文化の融合化の実態が看取される。鉄製品としては鉄斧があり、さらに、紡織の存在を裏づける石製・土製の紡錘車が見られるようになる。集落は、沖積低地の微高地に撰地され、後背湿地を利用して水田が営まれ、集落内に井戸の存在も認められてくる。
新らしい形態の石器および鉄器は、当然のことながら大陸より渡来したものであり、それとともに米作技術と紡織技術が移入された。集落における水田耕地の撰地観、さらに支石墓のごとき大陸の墓制も導入されるにいたる。土器の形態は、縄文文化の場合と異なり、甕(かめ)・壺(つぼ)高坏(たかつき)そして器台に統一される。甕形土器は煮沸形態、壺形土器は貯蔵形態としてとらえられているように(森本六爾『日本農耕文化の起源』)土器形態にも社会の実態が明敏に反映されている。
かかる弥生式文化は、紀元前一〇〇年ころには早くも東海地方にまで進出し、ついで、紀元前後には東北地方の南部にまで到達する。このような短期間に新らしい渡来文化の影響のもとに形成された文化が、伝統的な縄文文化の展開地域に深く進出したことは大きな意味を有している。そこには自然的条件によって左右される採集・狩猟の生活に対して、生活をより安定せしめ得る生産技術の導入であり、縄文文化発展の限界点と時間的にまさに一致したからでもあろう。