弥生文化の展開

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弥生文化は成立の当初より鉄製品を有するものであった。青銅製品はそれに遅れて朝鮮半島より伝来したものであり、弥生文化は鉄器時代として位置づけることができる。この文化は、縄文文化と同じく土器の型式の認識にもとづいて時代区分がおこなわれ、前・中・後の三期区分が使用されている。前期の文化は紀元前三〇〇年頃北九州地方に出現し、ついで、北九州一円および四国地方の一部に波及した。この段階において鉄製斧が出現し、集落立地の沖積微高地の問題とあわせて水田農耕の実態を示している。水田跡の発見は九州より中国地方にかけて、その可能性が説かれているが、まだ全容は明らかにされていない。しかし、その立地がグライ層の発達するごとき低湿地の近くにあることより、初期的段階における集落形成の要素が指摘されている。集落の実態は必ずしも明確ではないが、竪穴住居のなかに一種の貯蔵穴をもったものもあり、また貯蔵穴が住居と分離して密集存在する例も知られている。水田の利用は、自然条件をそのまま受け入れて、可耕地として活用したものであり、住居の存在位置と密接な関係をもっていたようである。墓制においては、支石墓・甕棺墓および箱式石棺墓が土壙墓のほかにあらわれてくる。この段階の遺跡は、その後半において東海地方の一部にまで認められ、急速な東方への進出を物語っている。

 中期に入ると各地域において地方色の豊かな土器が出現する。遺跡の立地も前期のごとく平野部に限定されず、山岳部にまで進出し、とくに谷筋に沿って山地へと進出する傾向がある。この段階になると、東北地方の南半まで稲作文化が到達していたことが、土器の分布などより考えられている。集落は、平野部の沖積微高地のほか、洪積丘陵上あるいは山岳地域にまで、それぞれの環境に即して、営農条件と密接に関係して形成されている。水田は、自然環境をそのまま利用する方法より進展して、それの一部を水田可耕地として開墾して、合理的な水田づくりが意図されている。谷筋の湿地帯を利用した谷水田の開発がそれである。畿内地方においては、この時期に磨製石器類が飛躍的に多量に使用されているが、この事実は開発の進行と有機的に関連づけられることであろう。木製の各種農具が普遍性をもって出現するのも、このころのことである。また、九州を中心として朝鮮半島より青銅の利器類が輸入され、そして墓に副葬品として埋められる。一方畿内を中心とする地方においては銅鐸(どうたく)があらわれてくる。さらに、北九州における大形の甕棺の出現は、とくに有名である。中国地方より以東においては、かかる大形の甕を用いず、壺棺のごときものが見られ、また、関東より東北南半にかけては、土壙墓に壺形土器などを副葬する傾向も見られる。

 北九州を中心に見られる青銅製の剣と矛(ほこ)と戈(か)は、その形態の変化による時代的変遷が認められる。基本的に細形・中細形・中広形・広形の四つに分類され、細形が古く広形が新しいという傾向がある。前期後半より中期にかけては細形・中細形であり、中期末より後期にかけては中広形と広形が多いようである。この関係は中期の中ころ、わが国において製作が開始されていることと関係しているかのようである。また、畿内を中心とする銅鐸の分布もかなり広範囲にあり、その製作も畿内に限らず、中期の中ころ以降、中国地方などにおいてもおこなわれたようである。

 後期の文化は、中期に見られた地域的特色の濃い文化の統合化の過程を軸として把握される。鉄製品が普及し石器が消失し、木器および木製品の多様化現象がうかがえる。集落は、中期に比較してより大規模になるとともに、一方においては小規模集落が散在してくる。これは本村と分村との関係においてとらえうべきものであろう。水田は、集落に接した地域に計画的に、そして積極的に人意にて自然を改造し、合理的な水田づくりが開始される。すでに中期に一部見られた倉床の独立が一般的になり、集落のなかに高床式の倉床が存在するようになる。青銅器の類はいぜんとして製作されているが、武器形態のものは広形になり、非実用的になり、鐸は小形になり、本来の機能を消失したかのごとき形態になる。墓制は、北九州地方においては、副葬品がいぜんとして盛んであり、とくに方形周溝墓という新らしい埋葬形態が出現してくる。それは方形に溝をめぐらした中央に土壙を有するもので、それ以前の埋葬形態とは異質のものであった。同じような埋葬は畿内以東においても認められ、東北の南半にまでこの新らしい埋葬形態が存在している。

 このように弥生文化は、水田農耕と鉄器を具有するという面に視点をおいて展望するとき、その生産技術の増大と、それによって生じた余剰生産物の蓄積とによって、縄文文化とは対照的な性格が看取されるのである。

 米作民族である日本人の形成がこの段階に発生した、と考える人の多いことも、当然のこととして容認されるのである。