南関東地方に弥生文化が伝播したのは、中期にはいってからであった。当初、洪積丘陵上、あるいは平野部に定着した新来の人々は、在来の縄文文化人と融合して、独自の土器をつくりだす。縄文装飾のつけられた土器の存在が、その一端を物語っている。畿内と同じく磨製石斧が盛んに使用されているが、大形蛤刃石斧・柱状片刃石斧・扁平小形石斧の外、打製石器も見られる。しかし、石庖丁の普及はなく、それに代わるべきものが使用されたようである。石庖丁の存在がまったく認められないのではなく、若干の出土例はあるが、その量はきわめて少ない。集落の規模もさして大きくなく、鉄製品の使用も普遍性を有していたとは考えられない。
後期に入ると、その傾向は一変し、大規模な集落が各地に出現する。有名な大田区久ヶ原遺跡はその顕著な一例とすることができる。鉄器の使用が一般的になったことは、石器の消失によって裏づけられ、また、縄文的な色彩が土器より一掃される。
この時期に入って、ようやく品川区にも弥生文化の遺跡が姿を見せるようになる。しかし、その資料はきわめて僅少であり、縄文文化のそれとは較ぶべくもない。
大崎二丁目五番地の居木橋貝塚近傍より、この時代の土器片が一片出土したことがあり、それを除けば、他に一例認められるのみである。その一例とは、東五反田五丁目の旧池田侯爵邸内より出土した一点の土器である。この土器は、後期前半の久ヶ原式の壺形土器であって、出土状態その他は不明のまま、東京大学理学部人類学教室に所蔵されている。土器に墨書された文字に、小金井良精博士寄贈と見えるので、かなり古く出土したものであろう。
この土器において注意さるべきは、底面に大きく一孔が認められることである。かかる壺形を呈する土器の底部に穿孔が認められる場合は、方形周溝墓の溝中より出土することが多い。したがって、想像を試みるとするならば、この土器は方形周溝墓と関係ある地点よりの出土とすることができる。
品川区に弥生文化の遺跡が少ないことは、その立地条件が適していない、ということとともに、遺跡地が後世開墾され、さらに人家が密集してしまったということを考慮しなければならないであろう。このことは、縄文文化の遺跡が、貝塚という眼にふれやすい特徴をもつもの以外、その存在が必ずしも明瞭であるといえないのと同様であろう。
いずれにしても、現段階において知られる弥生文化の遺跡は、以上でつきるかのごとき観をもっている。これは、さらにつぎの古墳時代にはいっても同様であり、縄文時代以降、しばらくの間は、区内における集落の存在は、さして多くなかったことが察せられるのである。