西暦四世紀の初頭、畿内地方に高塚式の墳墓が突然出現する。弥生時代の墳墓と比較して、この大規模な高塚古墳の発生は、まさに政治的な所産物として考えることができる。考古学上この時代を古墳時代と呼んでいるが、文献史家は西暦六四五年の大化改新に先立つ時代という意味で大化前代とも称している。
考古学では、古墳時代を前期・後期に大別し、さらに前期を四区分、後期を三区分し七期に細分する立場と、発生期・前期・中期・後期・終末期の五期に細分する説とがある。前説の前期と後説の発生期は、ほぼ西暦四世紀初頭を意味し、前説の後Ⅲ期と後説の終末期は、ともに西暦七世紀の中ごろ以降、八世紀ころまでを指している。したがって、いずれの立場をとるにしても、四世紀より七世紀にかけての四〇〇年間を古墳時代と称していることになる。この間、西は九州の南端より、東は北海道南半にいたるまで高塚古墳が営造されたが、地域によって発生と終末の年代にずれが認められ、それはそのまま古墳時代の政治的・文化的なあり方の一端を反映しているわけである。
古墳の出現時である四世紀代の古墳は、畿内を中心として認められ、そこより中国および北九州の一部に存在している。これらの古墳は、前方後円墳および前方後方墳とよばれるわが国独自の墳形をもっている。全長一八五メートルを有する京都府相楽(そうらく)郡大塚山古墳は、丘陵先端部を利用して築造されたものであるが、このような古い古墳は、自然地形を利用して築造されていることが特徴である。そこに出現時古墳の性格が反映されている。遺骸を埋葬する主体部は、竪穴(たてあな)式石室(せきしつ)であり、副葬品には、鏡と玉と武器および生産関係の遺物が見られる。とくに鏡の副葬が注目され、三六面あるいは十数面も発見されたこともある。
発生期古墳の様相は、ある程度判明しているが、最古の古墳はどれか、という問題については明らかでない。弥生時代の中期後半を上限として、弥生後期の終末から古墳時代の前期にまで存在することが明瞭になってきた周溝墓(しゅうこうぼ)をめぐる研究は、古墳の発生とどういう関係を有するものであるか、きわめて重要な問題を含んでおり、研究のいっそうの深まりが期待されている。ほとんど墳丘を有しない方形周溝墓と、壮大な高塚式の封土を有する発生期の古墳とでは、比較にならぬほど異質のものであり、そこには当然のことながら、強大な政治権力の保持者が出現したことを示している。
このように古墳の発生ということは、政治体制があらわれたことを示し、豊富な副葬品の存在とあいまって豪族の出現を端的に物語っている。