武蔵国の古墳

161 ~ 162

武蔵国における古墳の築造は、すでに触れたように五世紀の前半、多摩川および鶴見川の流域に形成された大形の前方後円墳より開始された。神奈川県川崎市の白山古墳・横浜市の観音松古墳・東京都大田区田園調布の宝来山古墳・亀甲山(かめのこやま)古墳がそれであり、いずれも全長七〇メートル以上、一〇〇メートルに近い大形の前方後円墳である。これらの前方後円墳の被葬者は、その副葬品中に見られる三角縁神獣鏡(しんじゅうきょう)などによって、畿内の大和政権と密接な関係を有していた豪族であろうと考えられている。

 その後この地域には引きつづいて古墳が築造され、多摩川中流域に田園調布の荏原(えばら)古墳群と日吉(ひよし)の加瀬古墳群が、そしてやゝ上流に狛江(こまえ)の古墳群が見られる。しかし五世紀前半代の大前方後円墳と比較するとき、かなりの小形化の傾向がみられる。それに対して五世紀の後半より古墳の築造がかなり顕著になってくる荒川流域には、六世紀に入って全長一二七メートルを有する埼玉県行田(ぎょうだ)市の二子山古墳など、一連の大形前方後円墳が形成されるようになる。このように武蔵の古墳文化の中心地は、五世紀前半代までは多摩川流域にあったが、六世紀に入ると荒川流域に移行したことが知られる。こうした現象の歴史的背景として説かれているのは、武蔵国造(くにのみやつこ)の継承問題をめぐる事件であった。