武蔵国造の内訌

162 ~ 163

『日本書紀』安閑天皇元年(五三四)の条に次のような記事がある。

武蔵国造笠原直使主(あたいおみ)・同族小杵(うからおき)と国造(くのみやつこ)を相争いて(使主・小杵はみな名なり)、年を経て決(き)め難し。小杵 性、阻(ひととなりうじはや)くして逆(さから)ふことあり、心高(たか)びて順(まつろ)ふこと無し、密(ひそか)に就(ゆ)きて援(たすけ)を上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に求む。しこうして使主を殺さんと謀(はか)る。使主覚(さと)りて走(に)げ出づ。京(みやこ)に詣(もう)でて状(そのかたち)を言(もう)す。朝庭臨断(みかどつみさだ)めたまひて、使主を以て国造と為(な)す。小杵を誅(ころ)す。国造使主悚(かしこ)まり憙(よろこ)び懐(こころ)に交(み)ちて、黙已(もだ)あること能(あた)はず。謹(つつし)みて国家の為に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四処(よところ)の屯倉(みやけ)を置(お)き奉(たてまつ)る。

 この記事は、六世紀代にあいついで勃発した各地における争乱の一つとして、古来有名なものであるが、武蔵国造家の家督権の争いに対して、大和政権と上野国の豪族とが介入し、結果的に武蔵国造(くにのみやつこ)の笠原直使主(あたいおみ)が、大和政権の権力下に組みこまれていく過程が示されている。

 大和政権は、ほぼ五世紀の前半ころ、中央に大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制を設けるとともに、部民を管理するために伴造(とものみやつこ)の制を成立させ、また身分制としてカバネ制を確立した。一方、地方の行政組織として国造制を確立した。国造は世襲的性格を有するものであり、これら各地における国造を通して大和政権の間接支配がおこなわれていた。その経済的基盤は、屯田・屯倉(みやけ)とよばれる直轄領であり、そして直轄民たる部民(かきべ)であった。しかし、六世紀の後半に入って大臣・大連制は、蘇我(そが)・物部(もののべ)両氏の抗争の結果、蘇我氏が独裁権を獲得するにいたって崩壊し、さらに、六世紀の前半における筑紫(つくし)の国造磐井(いわい)の反乱を代表とする各地豪族の反抗があいつぎ、国造と大和政権との関係にも破綻をきたしてくる。また、屯倉は、皇族の私的所有となり、部民はその管理者であった伴造の私有民と化してしまった。

 さて、武蔵国造家の継承争乱は、表面的には大和政権側の勝利に帰し、武蔵国内に四ヵ所の屯倉が設置されるにいたり、朝廷の直轄領が増加した。この屯倉の所在地については、横渟(よこぬ)は、横見郡の北武蔵に比定されるほか、橘花(橘樹郡)・多氷(多摩郡)・倉樔(久良岐郡)は南武蔵の多摩川上・中流域に比定される。横渟屯倉が笠原直使主の根拠地に近く設置されている以外、橘花・多氷・倉樔の三屯倉は、旧小杵の勢力地に設置されたことは、大和政権に反抗する勢力の経済的基盤を奪ったものであることは明らかであろう。これらの屯倉の所在地付近には、高塚古墳はさして多くなく、横穴墓が多く認められていることを注意すべきであろう。

 武蔵国造の内訌の後、六世紀の後半に入って武蔵国は荒川の流域を中心として大きく発展する。大形の前方後円墳を中心として形成されている埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群は、そのような背景をへて成立したものであった。そのころ、武蔵国内の各地には、小規模な前方後円墳と円墳とが、群をなして形成されるようになっていった。

 ついで七世紀の後半にいたって武蔵国は前方後円墳は姿を消し、もっぱら墳丘が縮小された小円墳と横穴墓とが、八世紀の初頭まで盛行していたのである。