大化前代より改新のころにいたる品川区の状態は明らかではない。
古墳および集落跡に関する確実な資料は認められていないのであるが、不確実な知見はわずかではあるが存在する。
区内における古墳としては、東大井(ひがしおおい)の三丁目から四丁目にかけての洪積丘陵(こうせききゅうりょう)上に、若干の古墳群が存在していたといわれているが明確ではない。また、大井四丁目の西光寺墓地より、一片の須恵器がかつて採集されたことがあるが、その出土遺跡の性格は不明である。
しかし、当時の品川区は無人の荒野であったのかといえば、けっしてそうではない。北方の港区芝の丸山古墳群、および西方の大田区田園調布の荏原古墳群は、ともに前方後円墳を中心に形成された円墳群より形成されたものであり、その付近においてはかなり大規模な集落が営まれていたことが察せられる。したがって、それらの地域と関連を有する小規模集落の存在は、想定することができるわけであるが、資料の未検出という状態より、具体的にその様相を示すことができないのである。