武蔵国府

169 ~ 170

武蔵国府は、現在の東京都府中市に設置された。この地は多摩川左岸の河岸段丘上の南縁にあたり、それより北に向かっては広い平坦面が連続し、丘陵南方の多摩川氾濫原には、かつて条里の痕跡が認められていた。

 国府の設置された地域の歴史的環境を全国的に見ると、(一)中期以降の古墳群が至近地に存在する地、(二)後期古墳群が隣接地に形成されている地、(三)付近に古墳時代の遺跡が認められない地、の三種類に分類されるが、武蔵の場合は、そのなかの(三)に該当する。すなわち、国府の設置された現府中市よりは、七世紀以前の集落などの遺跡が存在していないという事実によって、新らたに撰地されたことが明らかであるといえよう。

 このような国府撰地の三つの型は、そのまま設置時における在地豪族層の、中央との対応関係を示しているものと考えられる。武蔵国の場合は、国府域に古墳群の発達を見ず、また、集落の形成も認められないという事実より、この地は、在地豪族の掌握地域をはずれ、そこには集落の存在すら認められぬ地域であった。かかる地に国府が設置されたことは、(一)に在地豪族との土地利用の相剋を避けたため、(二)に屯倉の至近地にあたり、朝廷との関係が密接であったため、(三)に付近に帰化人の居住地があり、開発の技術が容易に得られたため、(四)に相模と毛野(けぬ)とを結ぶ交通路の利便地であったため、の四条件が指摘されるであろう。

 国府域は、周防国は方八町の範囲を土塁で囲み、その中央に国衙(こくが)を設定していた。また、国衙の規模は、近江の場合は、中門・正殿・後殿が南北一直線上にならび、中門より正殿にかけての両側には、南北に細長い脇殿が東・西にそれぞれあり、それを中門より派生した築地(ついじ)で囲んでいる、という一種の朝堂院形式の配置であり、中央の宮殿に見られる配置と軌を一にしていることが知られている。

 武蔵国の国衙跡は、出土遺物の認定などより、それの所在地が推定されているにとどまり、まだ実態については調査の手が加えられていない。ただ、国府域に含まれる範囲よりは、士師(はじ)器を出土する竪穴住居より構成される集落跡が発掘されており、高床建築であった国衙と対照的な一面を示している。