荏原郡の郷と遺跡

170 ~ 175

荏原郡における九郷のそれぞれの比定位置については明瞭ではない。しかし、そのなかの二、三については、ある程度の推定がなされている。蒲田郷は、大田区蒲田を中心とする地であることはほぼ確実であり、『延喜式』に見える武蔵国四十四社中の荏原郡二座〝稗田神社・磐井神社〟は本郷および隣接郷内に存在していたとすることできる。稗田神社は、蒲田神社(『三代実録』貞観(じょうかん)六年条)と同一であり(大場磐雄「考古学上より見たる稗田神社」『神社協会雑誌』二十五―二)磐井神社また現存するそれにあたるであろう。稗田神社は、多摩川下流域に発達している沖積微高地に位置し、磐井神社は、東京湾に直面する同地形上に存在する。前者は、蒲田郷内に位置していたことが考えられ、境内および付近一帯には貝塚を伴う小規模な遺跡が散在している(谷川磐雄「武蔵蒲田町附近に於ける沖積層地の原史時代遺跡」『歴史地理』四十七―四)。それらは呑川流域に発達せる微高地上に立地する例が多く、貝層中より土師器・須恵器などを出土するものである。現稗田神社の西北約七キロ、大田区西蒲田において調査された一小貝塚は、地表下二〇~六〇センチメートルにかけて約一平方メートルの範囲にレンズ状に純鹹水(かんすい)産貝類によって築成されていたものである(芹沢長介「東京市蒲田町原史時代貝塚」『先史考古学』一―三)。貝層中よりは、土師器が数片出土し、その周辺土層中にかなりの量の土師器片および一片の須恵器が包含されており、それに滑石製紡錘車・砥石(といし)・鉄製銛(もり)・同小刀状利器などが伴出した。貝塚構成の貝は、ハマグリ、シオフキが多く、サルボウ・アサリが見られ、ツメタガイがわずか含まれていた。

 このような遺跡は、第50図に示すごとく微高地上に点々と営まれたもので、その多くは奈良~平安時代の築成と考えられるものであり、漁撈を生業とする人々の遺跡であったといえる。


第50図 荏原郡内(品川区関係)郷推定地と奈良・平安時代の遺跡の分布

 蒲田郷は、稗田=蒲田神社を中心とする漁撈集落より主として構成されていたと察することができる。式内磐井神社は、現大田区大森北町に鎮座するものであろうと考えられ、その付近にも土師器を出土する小貝塚を伴う遺跡が存在していた。現大森駅東口の東光ストアー付近にも、その一例が知られており、それらはやはり微高地に立地するものであった。この磐井神社が蒲田郷に入るか、あるいは駅家郷に入るか判然としないが、同一郷中に式内二座の存在と見るよりは、一郷一座と見る方が妥当性ある推測になろう。さすれば、磐井神社は、駅家郷中に位置していたとすることができよう。この北方にも土師器を伴う小規模な遺跡が存在する。大森貝塚隣接地、西光寺貝塚および仙台坂貝塚付近などに認められるものであり、それは洪積丘陵の脚部、沖積地との接点近くに立地している。また、洪積層に作られた南品川の横穴墓の存在も注意さるべきものであろう。


第51図 南品川横穴墓調査時の状態(○ 横穴の入口)

 土師器を伴う小規模な遺跡は、従来、一部の識者を除いて調査が試みられなかったため、その分布と性格についてはかならずしも明らかでない。しかし、かかる遺跡が散在しているという事実はきわめて重要である。

 式内稗田神社および磐井神社が、ともに沖積微高地に立地し、その付近に漁撈集落が形成されていることは、当時における郷形成の側面を示すものと考えたい。とくに、これらの遺跡群をめぐる問題は、それが、従来、大井駅所在地と漠然と考えられてきた地域と重複している事実によって注目されよう。

 沖積微高地に立地する遺跡群の付近一帯は、昭和の初頭ころまでは出水の折に冠水・浸水することが往々あったが、遺跡存在地は比高約一メートルの高度を有するため、その難を免れていたという。これは、ごく最近における環境の一端を示すものではあるが、奈良~平安時代にあっても、さして変らぬ自然環境にあったことと思われる。かかる周囲に湿地帯が存在する地に駅が設定された、と考えることは当をえた解釈とすることはでき難い。

 それに対して、駅家郷中に比定しうるもので、洪積丘陵の脚部付近に立地する遺跡の場合には、微高地立地の遺跡とは異質面を有し、かなりの安定性ある撰定の集落としてよいであろう。このような撰地の遺跡は、大森貝塚より西光寺貝塚にかけての洪積丘陵脚部および立会川を隔てて存在する仙台坂貝塚より、南品川の横穴墓の存在する範囲にかけて見られる。南品川(五丁目二六一番地)の横穴墓は、副葬品など時代相を明確に示す資料を欠くが、その形状より見るとき、奈良~平安時代にかけての築造にかかるものとすることができるであろう。

 以上のように考えてくると、駅家郷内に比定しうる空間は、南方蒲田郷の限介を大田区大森北町付近に求め、さらに、大井駅の所在地を立会川の河口付近より、仙台坂貝塚・南品川横穴墓などをのせる洪積丘陵上に考えたいと思う。


第52図 南品川横穴墓玄室入口右壁の状態


第53図 南品川横穴墓実測図

 荏原郡は、駅家郷の西方の平坦なる洪積丘陵上を占めていたものと考えられ、その地は弥生時代後期に、水田農耕を基盤とする、大規模な集落が形成されたところであり、さらに古墳時代にはいっても、より西方に古墳群が中期末より後期にかけて発達している地であって、水田農耕集落の顕著な展開地域である。

 御田(美田・三田)郷は、荏原郷の北方に想定され、蒲田郷は、荏原郷の西北方に接した地であったかと思う。田本郷は、蒲田郷の東、荏原・蒲田郷の南に考えられており、覚志郷は、満田郷の西より北方にかけて、木田郷は、荏原郷の西北方、御田郷の西方に位置し、桜田郷は、御田郷の北方にそれぞれ一応の位置の推測が試みられている。

 これらの比定の方法は、地名の検討と後世の資料にあらわれる郷村名の比較とを軸として試みられているが、いずれも確実ではない。荏原郡の郡域と考えられている地域には、奈良~平安時代の集落遺跡の存在が知られているので、それらの検討を通じて、この問題があらためて追究される必要があるといえよう。