古代から中世へ

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前章で、律令(りつりょう)国家という中央集権的古代国家のうちに、品川区域がどのように位置づけられていたか考えてみた。そのような律令国家は、ほぼ十世紀(平安時代中期)を境いにくずれはじめ、同時に律令国家を克服する中世的な諸要素が現われてくる。

 現存する史料で、中世の品川区域がようやく姿を現わすのは、あとで詳しく述べるように、大井氏一族が品川・大田区域に定着し、かれらが支配した郷村を確められる十二世紀後半(平安時代末期)を待たなければならない。しかしいうまでもなく、たとえ史料が残らなかったとしても、この二〇〇年間に品川の歴史がなかったのではない。むしろ古代から中世への転換期にあたるこの時代に、品川区域に住んだ人々も、それぞれの立場で新らしい時代を切り開くために生きたはずである。その実情を具体的に明らかにすることはできないが、この時代の関東地方の歴史の大筋をたどることによって、品川区域における中世の成立の前史を考えてみよう。

 中世を古代から区別する目安(めやす)の一つは、多かれ少なかれ、土地とくに水田に対する私的な所有の権利が形成されてくることである。律令制は一般に公地公民制ということばが端的に表現しているように、日本全国の土地を国家が所有し、班田(はんでん)農民を主とする人民の各階層が国家へ隷属し、租庸調(そようちょう)などの貢納と徭役(ようえき)労働の義務を負うという体制であった。いいかえれば大化改新以前の中央貴族や地方豪族が、個別の土地・人民支配をやめ、中央集権的な国家の組織を通じて、土地と人民の支配をおこなうという体制が律令制国家の本質であった。前章で検討した大井郷(駅家郷)などの荏原郡各郷に生活していた班田農民たちも、そのような国家の支配にくみこまれていたのである。

 さて、さきに十世紀を境いに律令制は崩れはじめると述べたが、その原動力はなんであったろうか。律令制下の農民が耕作する口分田(くぶんでん)は前述のように国有地であって、農民の私有地ではなかったが、かれらの居宅とそれに付属する園地(えんち)(畠)に対する私的権利はある程度認められていた。また一口に班田農民といっても、(1)家族のなかに多数の奴婢(ぬひ)(奴隷)をかかえ、墾田(こんでん)も多くもって農業経営を行なう地方豪族的農民、旧国造(くにのみやつこ)の系譜をひく郡司層に代表される。(2)家族労働力により口分田を耕作し、小規模の墾田も持つ中堅農民。(3)ひろく存在する下層農民で、有勢者の墾田経営の労働力提供者、の三つの型があった(竹内理三『律冷制と貴族政権』Ⅰ)。

 私たちはすでに養老七年(七二三)の三世一身法、天平十五年(七四三)の墾田永世私財法の発令が、班田制をくずし荘園制を発展させる梃子(てこ)となったことを知っているが、この法令は、地方豪族などの班田農民上層に有利であった。かれらは、口分田耕作に加えて、大規模な墾田経営をおこなうかたわら、蓄積した稲を中下層農民に貸付け(私出挙(しすいこ))、逃亡した浮浪の下層農民を課役の肩替わりなどによって従属させ、中堅農民をも雇傭して、安定した農業経営をおこなっていた。このような経営が、八・九世紀ごろから「殷富(いんぷ)の百姓」とか「富豪」とかいわれた地方豪族のありかたである。

 富豪層と、それに従属した中下層農民との間に結ばれた関係(生産関係)が、アジア的奴隷制の一型態である律令制社会をのりこえる新らしい社会の基礎となったが、これを家父長制的奴隷制の展開とみるか、農奴制(封建制)の成立とみるか、あるいは奴隷制から農奴制への過渡期とみるか、学説は大きく分かれている。この問題は、学界で論争が続いているが、日本の歴史を正しく理解するための重要な課題である。

 このような推移を経て、多くの班田農民は律令国家の直接支配から離れていった。しかしこの過程は、同時に農民たちが荘園領主たる皇族・貴族・大寺社や地方豪族のもとに、あらたに隷属する過程でもあった。地方豪族は、食料や種子などを隷属農民に与え、その賦役労働によって直営地を経営し、全収穫を収納した。九世紀から十世紀ごろの、このような地方豪族を荘園(しょうえん)領主や後代の在地領主と区別して、私営田(しえいでん)領主という(石母田正『古代末期政治史序説』上)。

 関東地方でこの過程を実証することは、ほとんど不可能である。しかしその片鱗を探すことはできる。

 川崎市野川町影向寺台の旧影向寺は、奈良時代の武蔵国橘樹(たちばな)郡の郡司層の建立と推定されている。府中市京所(きょうず)廃寺からは「多寺」とへら書きのある瓦が出土するが、この寺は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(七四九)に死んだ多摩郡大領(たいりょう)(郡の長官)大伴赤麻呂(おおとものあかまろ)が建立した多摩寺と考えられる(『横浜市史』第一巻)。これらは武蔵国で仏教をうけいれた階層が郡司であることを示すとともに、かれらが私寺を建立できるほどの財力をもっていたことを物語る。

 奈良時代の仏教説話集『日本霊異記(りょういき)』は、大伴赤麻呂について「武蔵国多磨の郡の大領なり。天平勝宝元年己丑(つちのとうし)冬十二月十九日をもって死し、二年庚寅(かのえとら)夏五月七日をもって黒斑(まだら)なる犢(こうし)に生れ、自(みずか)ら碑文を負いたり。斑文を探(あなく)るに謂(い)わく、赤麻呂は己(おの)が造れる寺を檀(かざ)りて、恣(ほしきまま)なる心のまにまに、寺の物を借り用いて、いまだ報い納めずして死に亡(う)す。この物を償(つくの)はむがための故に、牛の身を受くるなり」と記している。

 平安時代に入って承和七年(八四〇)に相模国大住郡の大領壬生直広主(みぶのあたえひろぬし)は、窮民にかわり私稲一万六〇〇〇束を納め、五、三五〇人の人口を増加させて政府に表彰された(『続日本後記』)。ここにわたくしたちは没落した班田農民と、かれらにかわって私稲を納めることのできた富豪の存在、そしてあたらしい開墾や荒廃田の再開発によって五、〇〇〇人もの農民を呼びあつめた富豪の姿を知ることができる。律令国家対班田農民という関係と異なり、私営田領主と農民との間に、支配と保護と隷属の関係が成立しているのである。

 影向寺を建てた橘樹郡の郡司や大伴赤麻呂の子孫が、私営田領主に成長したかどうか、まったくわからない。しかし十世紀前半の将門(まさかど)の乱の渦中に、私たちは足立(あだち)郡司武蔵武芝(たけしば)という郡司系土豪に私営田領主のおもかげを見出す。品川区域がふくまれる武蔵国でも、班田農民がさまざまな手段と道筋をへて、国家の支配からぬけ出し、あたらしい支配者に服属するという推移を当然考えなければならない。そしてその推移のうちに、律令国家をそのもっとも深い基礎からつきくずした原動力を求められるのである。