いままで述べたことは、律令国家の解体と中世社会成立についての、ごく一般的な道筋にすぎない。歴史は一般的に展開するのではなく、とくに経済発展の地方差がいちじるしい近代以前の社会では、それぞれの地方がもつ政治的な条件や社会関係が、その地方の歴史の具体的なありかたを特徴づける。そうした見方からすると、われわれの郷土である関東の地は、どのような特殊性をもっているであろうか。
関東の歴史を日本全体の歴史のなかに置いてみると、関東地方はすくなくとも、江戸時代以前では辺境の後進地とみなされている。いうまでもなく古代日本の政治と経済の中心は畿内にあり、律令国家も畿内の貴族が中心になってつくった国家である。古く大和国家時代、関東は独立国であり、大化改新以来中央政府の支配に服したが、平安時代後期には半独立政権が成立した、これは昔の独立国の復活であるという説(石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』)や、関東は中央から一種の異域とみられ、律令制の衰退はもともと完全に中央政権に結びついていなかった関東を、次第に中央から切断したという説(上横手雅敬『日本中世政治史研究』)が主張されているように、関東の政治的背景はかなり特殊である。特殊性は平安時代の争乱に現われてくる。
貞観(じょうがん)三年(八六一)、武蔵国の郡ごとに警察をつかさどる検非違使(けびいし)一人を置いた。「凶猾(きようかつ)党をなし、群盗山に満つ」という治安の乱れに対する政府の対策である(『三代実録』)。また昌泰二年(八九九)上野(こうづけ)国(群馬県)は「強盗蜂起、侵害もっとも甚し」という状態となり、政府は足柄(あしがら)関と碓氷(うすい)関の警備を命じた(『類聚三代格』)。坂東諸国の「富豪の輩」が、東海道と東山道に出没して、中央に上がる貢納物を略奪したからという。かれらは「〓馬(しゆうば)の党」といわれるように運輸業者の組織であり、「群党を結び、すでに凶賊」となるものであった。延喜十九年(九一九)には、前武蔵権介源任(ごんのすけみなもとつこう)が国府の官舎を焼いて官物を略奪し、現任の武蔵守高向(たかむこの)利春を襲撃しようとした(『扶桑略記裏書』)。
「群盗」・「強盗」・「群党」・「凶賊」と政府にきめつけられた土豪たち、それを取り締まる検非違使、国府と争いを起こす土着した国司、これらは「富豪の輩」であって、その社会的な性格は共通であったろう。九世紀後半から十世紀前半にかけての関東の情勢は、土豪層を中心にはっきりと反律令国家の様相を示している。十世紀のなかばに起きた将門の乱は、このような関東の状態が素地となっていたのである。