乱の背景

184 ~ 187

天慶三年(九四〇)二月、将門は下総猿島(さしま)郡北山に平貞盛・下野押領使藤原秀郷(ひでさと)の軍勢と戦い敗死した。追討使藤原忠文が関東に到着する以前、将門のもとに千人たらずの兵しかいないのを貞盛が察知し、秀郷の協力を得て戦いをいどみ、一挙に討滅してしまったのである。将門の与党は逃亡先で殺された。将門の夢は、どうしてあっけなく崩れてしまったのであろうか。

 結論を先に述べると、将門はじめこの時代の関東の土豪のあり方が、乱の形態や経過、さらにかれらの行動や思想を規定し、将門の夢みた政権は古代国家をのりこえられない限界をもっていたのである。将門の所領経営をみてみよう。将門の本拠は下総豊田郡であったが、国内にいくつかの「営所(えいしょ)」をもっていた。『将門記』によると、承平六年(九三六)に良兼は将門の猿島郡石井(いわい)営所に夜討ちをかけた。私闘の初期、もっぱら将門と戦った良正(よしまさ)の本拠は、常陸水守(みもり)営所であった。この営所とは、館と城塞と農業経営の設備をそなえた宏壮な豪族屋敷と考えられている。営所の周辺にひろがる耕地は、「田屋(たや)」に住み、「伴類(ばんるい)」とか「田夫(でんぷ)」といわれる農民によって耕作されていた。このような土豪のあり方は、前節でふれた私営田領主の典型的な姿を現わしている。

 武蔵武芝と藤原玄明の性格も同様であったろう。『将門記』は武芝を能治の郡司、玄明を国の乱人(らんじん)とえがきわけているが、武芝が「縁辺の民家」を支配し、官物を納めずに国司の実力行使をうけたことは、玄明の行動と共通しているのである。

 将門の乱を特徴づけるもう一つの性格は、将門のもとに国衙に対立する勢力が集まったことである。武芝はいうまでもなく、玄明はただの無頼の徒でなく、常陸掾(じょう)藤原玄茂(はるしけ)の近親と考えられており、常陸国衙内における長官藤原維幾の反対勢力であった。そして玄茂自身、将門に加勢し将門の独立国の常陸介に任じられているのである。興世王は武蔵国府から追われた不平分子であった。このような連中が将門のもとに集まったからには、中央政府の出先機関である国衙との対立は避けがたい。私たちは前節で九世紀における土豪層の反国衙的行動をみてきたが、そのような気運が将門の乱で集中的に爆発したといえるのである。

 しかし将門を頂点にいただく土豪たちが、あたらしい国家――律令国家をのりこえる異質の国家を建設するには、どうにもならない古い体質をまつわりつけていた。その一つは、かれらの軍事組織がきわめて弱体であったことに現われている。将門らの兵力は、譜代の郎従を中心に、「伴類」といわれる兵で編成されていたが、伴類は営田の耕作にしたがう農民であったらしい。いわば私営田領主の隷属農民が徴兵されたのである。一合戦終われば帰村して田畠を耕さなければならない農民が、どうして強力な軍隊の兵士になれるだろうか。貞盛と秀郷は、将門が「諸国の兵士らを返し」たすきをついて勝利をおさめた。

 また将門と将門に臣従した土豪たちとの間には、後の時代にはっきりしてくる主従の固い結びつきが、まだできていなかった。このような軍事組織の弱さが、合戦ごとに将門みずからが陣頭に立って力戦せざるを得ない背景になっていた。将門が関東八ヵ国を軍事的に制圧しながら、そこにうち建てようとした国家が、くさりつつある律令国家の模倣にすぎなかったことも、かれ自身のもつ古代豪族としての体質によっていたのである。しかし歴史は社会の基礎がいくら変化しても、それだけで自然に動くのではなく、複雑な政治的諸事件の渦中に身をおいたひとびとが、時代に働きかけることを通じてしか展開しない。その意味で将門の乱は古代国家にくさびを打ちこみ、その崩壊を早めた。将門の夢は後世の鎌倉幕府の成立に結実したといわなければならない。

 将門の乱は、関東の人々に長く記憶され、当時の怨霊思想と結びついて、さまざまな将門伝説が生まれた。一時にせよ国衙の苛政に反抗し、国司を追放した将門に対する共鳴の心情が強かったからであろう。品川区内には将門に関係する伝説はないが、東京都内に将門伝説が多い。なかでも著名なものが将門を祭った神田明神社である。将門の首塚と称する墳墓が古くから江戸芝崎村(千代田区大手町付近)にあったが、十四世紀はじめに荒廃して、将門の亡霊が村民に祟(たた)った。遊行(ゆぎょう)二世の真教上人が回国のさい、回向供養して怨霊をしずめ、芝崎村に鎮座する神田鎮守の明神に配祀した、という。神田明神は江戸開府後湯島に移ったが、将門の首塚といわれるものの遺構が現在も千代田区大手町に現存し、古びた燈籠と明治四十年再建の板碑がビル街のほとりに立っている(『千代田区史』上)。神田明神は江戸の鎮守として、その祭礼は山王祭とともに天下祭といわれた。


第54図 将門首塚(『図説日本文化史大系』4)