将門の敗死、与党の討滅によって、関東は一時平静にかえった。貞盛の諸子は、関東諸国の国司や陸奥守を歴任し、平氏一族による関東支配の基礎をきずいた。秀郷は下野押領使(おうりょうじ)から下野守に任ぜられ、武蔵守を兼ねて北関東に勢力を張り、秀郷流藤原氏の諸氏を繁栄させた。将門はやみくもに国衙との戦いに突き進んで滅亡したが、貞盛・秀郷らは律令国家の力を利用しながら、本来共通の性格をもつ将門を打倒し勝利をおさめたのである。その後の関東の歴史は、国衙の官人となるかたわら、国衙の公権力を利用して在地に私的な勢力を拡大しようとする豪族たちが、たがいに対立抗争し、やがて武家の棟梁の家人に組みこまれて行く過程を軸に展開する。
天元二年(九七九)、下野国から前武蔵介藤原千常と源肥が戦ったことが政府に報告された。千常は秀郷の子である。長保五年(一〇〇三)には、平維良(これよし)が下総の国府を焼き官物を奪ったので、政府は押領使藤原惟風に追捕させた。維良は越後に逃れたが、のち陸奥守兼鎮守府将軍の重職についている。事件の真相ははっきりしないが、土豪と国衙の対立の激化する様子がうかがえる。
平維良の系譜はわからないが平氏に関する諸系図によると、貞盛の子に維将・維時(北条氏祖)・維衡(これひら)(伊勢平氏祖)、貞盛の弟繁盛の子に維望(これもち)・維茂・維幹(これもと)(常陸大掾氏祖)と「維」を共通とする諸子がいる。維良は貞盛あるいは繁盛系の人物と考えられる。
このような関東の小争乱をへて、将門の乱から九〇年後、房総の地に将門の乱を上まわる大叛乱が発生した。長元元年(一〇二八)、前上総介平忠常(ただつね)が安房国衙を攻撃し、国守惟忠を焼き殺した。同年七月には、忠常の従者が上総国衙に乱入し、国司の「従類」を逮捕して国司の生死は忠常の手中ににぎられたという。同三年、安房の後任の国守藤原光業(みつなり)は、国印と鍵をすてて上京し、「忠常の伴類、彼の国を虜掠」と報告した。長元七年(一〇三四)の伝聞によると、主戦場であった上総では、「もと二万二九八〇町余あった水田が一八町余に減ってしまった。将門の乱でも大きな被害があったが、これほどではなかった」(『左経記』)という。叛乱はあしかけ五年におよび、その間に政府の討伐軍と激戦があったらしいから、この伝聞に誇張があるにせよ、房総の荒廃はすさまじいものがあったであろう。
忠常は、将門の父良持(よしもち)の弟村岡五郎良文(よしぶみ)の孫で、下総相馬郡に住み、乱を起こしたときは前上総介であった。乱の原因はあきらかでないが、「上総・下総ヲ皆我マヽニ進退シテ、公事(くじ)(年貢や課役)ヲモ不為(せざ)リケリ」(『今昔物語集』)といい、「忠常を追討した後は坂東で公事をこばむものはいない」(『少右記』)というのであるから、国衙に対する公事の拒否にはじまり、房総地方支配の実現をこころざす叛乱に進んだのであろう。政府は長元元年(一〇二八)に追討使平直方(なおかた)と中原成道(なりみち)を派遣したが鎮圧できなかった。同三年九月甲斐守源頼信(将門の乱当時の武蔵介源経基の孫)が追討使となった。ところが頼信が任地甲斐から叛乱地へ出発する以前に、忠常はみずから甲斐へきて降参した。降人忠常は頼信にともなわれて上京の途中、美濃で病死した。房総に猛威をふるった忠常の叛乱は、あっけなく終わった。
なぜ忠常は降伏したか。このことをめぐって説が分かれている。一つは、荒廃し疲弊しきった房総三カ国で権力を維持することができなくなった忠常自身の弱さを重視する説(石母田正氏)、もう一つは、『今昔物語集』が伝える伝承によって、頼信の常陸守(介)在任当時に忠常と主従関係を結んだことを重視する説(上横手雅敬氏・竹内理三氏)である。いずれにせよ忠常の乱は、一地方豪族の叛乱では独立の政権を保てない弱さをもつこと、それを実現するためには、より上位の権威、武家の棟梁(とうりょう)に結びついて、武士階級の力を集めなければならなかったことを示した。それ以後、関東の武士が源氏の家人に組織されていく動きが進行する。十一世紀から十二世紀の関東の歴史は、その実現の過程であったのである。
品川区旗の台三丁目の中延八幡社の創立縁起は、頼信の忠常追討と関係づけている。江原義宗がその子越中阿闍梨(あじゃり)朗慶(法蓮寺の開山)に与えたという文永十年(一二七三)八月十一日の文書(『新編武蔵風土記稿』所収)は、義宗の先祖自筆の文書のうちから、八幡社の縁起を書き抜くといって「一、頼信公御筆にいわく、去る寛仁年中、不思儀の夢想を蒙むり、すなわち木像八幡を得、つねにこれを崇敬す、悪事をつげ善事を知らしむ、まことに霊験あげてはかるべからずと云々」、「一、またいわく、長元四年辛未七月上旬のころ、嫡男頼義父子ともに、同じく霊夢を蒙むる、不思儀かな、云うもはてず、奥州(ママ)において忠常の兵威強し、しかして平直方も功なきにより召し帰し、甲斐守頼信に命じて坂東の勢を給わり討しむ、はたして夢想のごとく、父子ともに高名を得たりと云々」とあり、以下前九年の役、後三年の役における八幡の霊験を述べた頼義・義家の文書なるものを書き抜いている。しかし義宗の文書は、形式と文言からみて鎌倉時代のものではあり得ず、はるか後代の偽文書である。江原義宗も所伝のない人物である。「義宗」自身が「先祖頼義公旧跡に勧請しける鶴岡(鎌倉)の八幡宮、あに勝劣あるべくんや、彼(鶴岡八幡社)は外宮、これ(中延八幡社)は内宮と云々」といっているのは、むしろ後代の人が中延八幡社の縁起をかざるために、武蔵にひろく伝わる頼信の八幡社勧請伝承に付会したことを示唆する。しかし旗ヶ岡という地名が源頼信が忠常討伐のとき、この地に旗を立てたことに由来するといわれるように、品川区域に古くから源氏に関する伝承が伝えられたことはたしかである。