棟梁と家人

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前九年の役と後三年の役は、忠常の乱にめばえた源氏の嫡流と、関東武士との主従関係の成立をうながした。

 前九年の役は、天喜(てんき)四年(一〇五六)から康平(こうへい)六年(一〇六三)まで続いた東北地方の争乱である。永承(えいしょう)六年(一〇五一)、陸奥六郡の俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷)の長安倍頼良(のち頼時)が勢いをふるい、賦貢を納めず、徭役をつとめなくなった。陸奥守藤原登任らが討伐したが、かえって破られ、政府はこの年に源頼義を陸奥守に任じ、ついで鎮守府将軍を兼ねさせて頼時を追討した。頼時は一時帰順したが、天喜四年(一〇五六)頼義の挑発にのり戦端が開かれた。頼時は翌年討死したにもかかわらず、子貞任(さだとう)を中心に安倍一族の結束はかたく、頼義は苦戦を重ね、康平五年(一〇六二)出羽の俘囚清原武則(たけのり)の援助を得、同年衣川柵(ころもかわのさく)・鳥海柵に貞任を撃破し、厨川柵(くりやかわのさく)を陥(おと)して貞任を殺した。


第56図 前九年合戦絵巻

 源氏が武門の家として名をあげたのは、忠常を降伏させた頼信のときからである。頼義は頼信の嫡子である。前九年の役が終わって間もなく作られた『陸奥話記』によると、頼義は父頼信とともに忠常の追討にしたがい、その勇気と才気をしたって多くの坂東武士が服属した。前九年の役以前に相模守となり「威風大いに行なわれ、拒捍(きよかん)の類(政府に反抗するもの)みな奴僕(ぬぼく)のごとし、しかして士を愛し施を好む、会坂(おうさか)以東弓馬の士、大半門客」となった、という。源氏と関東武士、なかでも相模国の武士たちとのかたい主従のきずなは、頼義の相模守在任当時に、国守とその郎従という結びつきに始まったらしい。

 前九年の役における頼義の立場は、陸奥守兼鎮守府将軍であり、賊追討の官符をもつ政府の軍事指揮官であったから、動員された関東の武士のすべてが頼義の私兵ではなく、大部分は政府に徴集されたのである。しかし頼義の軍勢の中核には、頼義のために死を恐れない私兵がいた。『陸奥話記』によると、天喜五年(一〇五七)頼義・義家父子の黄海(きうみ)における敗戦のとき討死した佐伯経範(つねのり)は相模国の住人で、頼義に仕えて三〇年を経ていた。藤原景季・和気致輔(のりすけ)・紀為清は頼義の親兵であり、「万死に入り一生をかえりみず」討死した。また藤原茂頼は頼義の「腹心」であった。藤原景季は景通の子で、景通は鎌倉権大夫景通と伝えられる人と同一人物と考えられているから、頼義と鎌倉氏一族との間に、私的な主従のむすびつきを十分に想定できる(安田元久『古代末期の関東武士団』)。このように地方武士を私的に臣従させた武士の長を棟梁といった。

 後三年の役は、永保三年(一〇八三)から寛治元年(一〇八七)まで続いた争乱である。前九年の役に戦功があった清原武則の嫡孫真衡(さねひら)と、その異母弟清原家衡および藤原清衡(平泉藤原氏の祖)との争い、ついで家衡と清衡の抗争という清原氏一族の内訌に、清原氏を押えて奥州に覇権を築こうとたくらむ陸奥守源義家が介入した。争乱は家衡の滅亡で終わったが、政府は義家の私闘と判断して恩賞を与えなかった。義家が功ある将士に私財を与え、従軍の関東武士を感激させたという伝えは、このときのことであった。


第57図 後三年合戦絵巻

 さて、後三年の役における義家の私兵は、くわしくわからないが、『奥州後三年記』に武勇を伝えられる鎌倉権五郎景正や、三浦平太郎為継らの相模国在住の武士が、義家の郎従であったことはあきらかである。義家が父頼義の遺産をついで、相模の武士の家人化をいっそうおし進め、やがて後の保元・平治の乱や頼朝の挙兵に際して、関東の武士が源氏に馳せ参ずる基礎がつくられたのである。

 『奥州後三年記』が伝える鎌倉景正と三浦為次とのやりとりは、当時の武士の気質をあらわす有名な話しであるから引用しておきたい。なお景正は系図により異同があるが、前にふれた鎌倉権大夫景通の近親と推定され、相模国大庭御厨(おおばみくりや)の根本領主で大庭氏の祖となり(『天養記』)、為次は相模国の在庁官人三浦氏の祖である。

 「相摸の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり、先祖より聞え高きつはもの(兵)なり、年纔(わずか)に十六歳にして大軍の前にありて命をすてゝたゝかふ間に、征矢(そや)にて右の目を射させつ、首を射貫きて兜(かぶと)の鉢付の板に射付られぬ、矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ、さてのき退き帰りて兜をぬぎて、景正手負(ておい)たりとてのけざまにふし(伏)ぬ、同国のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり、これも聞え高き者なり、つらぬき(貫・毛皮のくつ)をはきながら、景正が顔をふ(踏)まへて矢をぬかんとす、景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずり(草摺)をとらへてあげさまにつ(突)かんとす、為次驚きて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふよう、弓箭(ぜん)に中(あた)りて死するはつはものゝのぞ(望)むところなり、いかでか生(いき)ながら足にてつら(顔)をふまるゝ事あらん、しかし汝をかたき(敵)としてわれ爰(ここ)にて死なんといふ、為次舌をまきていふ事なし、膝をかゞめ顔ををさえて矢をぬきつ、多くの人是を見聞、景正か功名いよ/\ならびなし」