源義朝と関東

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ところで在地領主の領主権の内容は郡・郷・村全体におよぶ排他的な領有権ではなく、所領も国衙の支配から完全に独立した領域ではなかった。とくに古代天皇制の最終段階に成立した院政の強大な力を背景とする国守や目代は、命令に従わなかったり、租税収納に不成績な郡郷司をしばしば免職したり、領主の既得権を廃して郡郷を国衙の全面的な支配のもとにおこうとした。所領の維持拡大に必死の在地領主は、国衙の圧力に何とか抵抗しようとする。そこで考えだされた方法が、中央の皇室・貴族・大寺社に所領を荘園として寄進してしまうことであった。いわゆる寄進地系荘園の成立である。たとえば十二世紀の関東における伊勢神宮の御厨(みくりや)(荘園)の成立をみてみよう(第九表)。

第9表 御厨の成立
年次 御厨名 在地領主 史料
天永3年(1112) 伊豆 蒲屋御厨 神宮雑書
永久5年(1117) 相模 大庭御厨 大庭氏 天養記
吾妻鏡
元永年間(1118-9) 武蔵 七松御厨 神宮雑書
保安3年(1122) 武蔵 榛谷御厨 榛谷氏
大治5年(1130) 下総 相馬御厨 千葉氏 櫟木文書
天承元年(1131) 上野 高山御厨 神宮雑書
保延4年(1138) 下総 夏目御厨
康治2年(1143) 下野 簗田御厨 秀郷流藤原氏
久寿3年(1156) 上野 薗田御厨
長寛年間(1163-5) 上野 青柳御厨
上野 玉村御厨
永万2年(1166) 下野 寒河御厨 小山氏
不詳 武蔵 飯倉御厨
 〃 武蔵 大河戸御厨 大河戸氏
 〃 安房 丸御厨 丸氏 吾妻鏡
 〃 上野 須永御厨 神宮雑書
上野 邑楽御厨

 

 この一覧によると、十二世紀前半は相模・武蔵・下総などの南関東に、後半に入って上野・下野の北関東に御厨が設置されている様子がわかる(安田元久『古代末期における関東武士団』)。関東地方における荘園の成立年次はほとんどあきらかでないが、御厨の成立とほぼ同じ傾向であったろう。このように在地領主は所領を寄進し、荘園領主になにがしかの貢納義務を負い、みずから荘園の下司(げし)・荘司に任命されて実質的な領主権を保った。寄進地系荘園の成立は、土地と農民に対する支配の維持と拡大をめざした、領主の一貫した運動の一つの到達点であった。

 十二世紀の関東は、武士団の成立期でもあった。武士団の典型が党である。武蔵における党の史料上の初見は、永久元年(一一一三)に内記太郎という者を殺害した罪で追討された横山党二〇人である(『長秋記』)。この横山党をふくんで、児玉・村山・猪俣・野与・丹・西を武蔵七党といい、ほかに私市・綴の二党があった。この党は一族の本家を中心に結ばれた族的結合のもとに、比較的小範囲の地域に分布する戦闘集団であるが、領主としては、前に述べた在庁官人層よりも下位に立つ郷村の公文(くもん)・村司・名主などの小領主であった。このような中小武士団が各国の軍事警察権をにぎる有力在庁武士や、武門の棟梁のもとに結集するという動きが、十二世紀中ごろの大きな流れであった。


第59図 武蔵七党分布図(児玉幸多・杉山博『東京都の歴史』)

 源氏は源義家の時代が全盛であった。しかしその子義親は、康和三年(一一〇一)対馬守在任中の悪行を訴えられ、義家の死後、嘉承三年(一一〇八)追討使平正盛に討伐されて、急速に勢いを失った。源氏に代わり平正盛・忠盛父子が白河上皇の寵を得て、院政の軍事力として台頭した。義親の子為義は終始京都にあって源氏の勢力回復に苦心した。そのころ為義の子義朝が鎌倉に住み、父祖以来の源氏の関東における威勢の維持拡大を図っていた。

 義朝は「坂東生立ノ者」(『保元物語』)といわれ二十三、四歳までの青年期に鎌倉居住が推定されるが、現在記録に残されているだけでも、その活躍はめざましかった。康治二年(一一四三)下総相馬御厨に関する下司千葉常胤と下総国衙との対立と、千葉氏一族内のもめごとに乗じて、義朝は常胤から証文を取りあげ、天養二年(一一四五)あらためて伊勢神宮に寄進し、みずから下司となった。この事件とちょうど同じころ、天養元年(一一四四)、義朝はかの鎌倉権五郎景正が開発寄進した相模大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市)の廃止をめざし、相模国田所(たどころ)目代・在庁官人と結託、名代清原安行のほか三浦義明・中村宗平・和田助弘ら千余人の軍勢を遣して、さんざんの乱妨をはたらいた(『天養記』)。

 この二つの事件は、手段こそ異なるが、義朝が源氏の嫡流という権威をてこに、在地領主=武士の領主権の一部をさきとり、臣従させようという意図をあきらかに物語っている。大庭御厨事件では、義朝の子頼朝の挙兵のとき、源家再興を信じて討死した在庁三浦義明が土屋・和田らの三浦一族の中心になって働いており、御厨下司大庭景宗の子孫である大庭景義・景親でさえ、後年の保元の乱には義朝の郎党として奮戦しているのである。

 十二世紀の中ごろは党といわれる中小武士団や、千葉氏のような豪族的大在地領主――それ自体棟梁的性格をもつ武士が、統合にむかって急速に動きつつある時代であった。統合の中心は義朝一人ではなく、武蔵大蔵館にいた義朝の弟義賢(木曽義仲の父)や常陸佐竹氏・上野新田氏・下野足利氏らの源氏庶流、藤原秀郷の子孫下野小山氏らの有力棟梁があり、中小武士団はそれらのもとに統合されつつあった。青年期の義朝の関東における活動は、源氏の勢力失墜でゆるんだ主従のきずなの強化だけを狙ったのではなく、いくつもの棟梁的豪族に対抗し、ときには暴力的な手段をも行使して、強力な軍事的・政治的基礎を関東に打ちたてようとしたのである。

 義朝の懸命の努力は、保元・平治の合戦における義朝の軍事力として結実した。義朝の兵力の中心は関東武士であった。源氏ととくに関係深い相模の武士はもちろん、武蔵では良文流平氏の秩父氏のほか、武蔵七党の名だたる武士が動員された。相馬御厨を押領された千葉常胤や、上総の大豪族上総介広常さえ義朝に従ったのである。

 一方、関東の武士は両度の戦乱で自己の実力を自覚した。皇室や貴族の勢力争いが、棟梁にひきいられ草深い田舎から都に出て戦った武士によって解決されなければならなかったからである。そして時代を動かす力は、いまや十世紀以来中央政府に対抗し、ときには叛乱を起こし、あるいは合法的手続きにより、領主制を発展させてきた武士の手ににぎられた。

 中世品川の開幕は、十二世紀後半に姿を現わす大井氏に象徴される。わたくしたちは、これまで述べてきたような推移を、品川区域で具体的にたどることはできないが、大井氏の品川区域およびその周辺の支配そのものに、律令制の解体と、中世の成立にいたる過程をみることができるのであり、またそこに時代に生きた人々の苦闘を感じるのである。