十二世紀の品川

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前節でわたくしたちは、十二世紀に進行した郡郷の私領化と、私領化した郡郷の支配の維持のために、在地領主がおこなった荘園寄進について考えてきた。いいかえれば、この時代の土地と農民は国府の支配下にある国衙領か、荘園かのどちらかであった。もっとも現実には、前述のように国衙に対する在地領主の力がまだ弱く、一つの領域に国衙領と荘園が重複したり、一つの土地が複数の荘園領主に寄進されたりすることがあったが、土地制度の原則からいえば、国衙領と荘園とに分けられる。では十二世紀の品川と、その周辺は国衙領であったか、それとも荘園であったろうか。この問題を解決することは、なかなかむづかしい。史料があまりにも少ないからである。

 古代末・中世の江戸でさえ、国衙領か荘園か、はっきりしていない。江戸を荘園の名称とする説は古くからあるが、近世以前に江戸荘といった文献はなく、南北朝期の史料にようやく「江戸郷」が現われるにすぎない。ただし、十二世紀の関東における荘園発生の一般例から、現在の港区赤坂の日枝神社(山王社)を荘の鎮守とし、秩父流の江戸氏を荘司とする日枝社領江戸荘の存在が推定されているだけである(『千代田区史』上)。

 『新編武蔵風土記稿』は、荏原郡西部に萓苅荘という荘園があったと伝えている。それによると、「今二十七村あり、荏原郡の西の方半はこの庄名を唱ふ、但東の方の諸村は、庄名聞えざれば、爰にも古くは庄名ありしも、後世其名を失せしと見ゆ、後世は領の名を専とし、郷庄の名はあながち用ゆるに及ばざれば、かく失ひしものと見えたり」とあって、現在の目黒区・世田谷区域の村々に萱苅荘の荘域を求め、品川・大田区域にも荘園の存在を想定する。しかしこの説は確証があってのことではない。

 むしろここでは「畠山系図」や「秩父系図」が、武蔵国留守所総検校職(在庁官人)秩父重綱の弟で、十二世紀前半に実在が推定される基家を「河崎冠者」といい、「荏原郡を知行」したと書いていることに注目したい。基家は別の系図によると、豊島郡渋谷に住んだ(「宮城系図」)とも、渋谷六郎と称した(「井田家系図」)ともいう。橘樹(たちばな)郡河崎(現神奈川県川崎市)や豊島郡渋谷に居を定めた基家が荏原郡を知行する関連はわからない。しかし「荏原郡知行」という表現に、基家が荏原郡の郡司職、あるいはそれに類似の権限を持っていたと考えるのは不可能ではない。とすれば荏原郡は国衙領であった、ということになる。

 検討の範囲を品川・大田区域にしぼってみよう。第一〇表は、十二世紀から十五世紀にいたる両区域の地名が、どのように表現されているかを示した。この表には荘名はまったく現われず、律令制の郷のなかから発生した郷や村、あるいは国衙領の一種である「保」を構成する郷がすべてである。

第10表 品川付近の地名呼称
年次 地名 史料
元暦元年(1184) 品川郷 田代文書(資1号)
元久元年(1204) 荏原郡大社永富両郷 大井文書(資2号)
貞応2年(1223) 南品川郷桐井村 田代文書(資5号)
弘安元年(1278) 荏原郡内大杜永富両郷地頭職 大井文書(資14号)
弘安7年(1284) 荏原郡内大森永富両郷・同郡内堤郷  〃  (資16号)
元徳3年(1331) 六郷保内大森長富  〃  (資23号)
建武元年(1334) 荏原郡大森永富郷地頭職  〃  (資24号)
貞治5年(1366) 大井郷不入読村地頭職 土岐家譜(資28号)
永徳3年(1383) 大井郷不入読(土岐)頼重跡 土岐文書
明徳2年(1391) 六郷保大森郷陸奥五郎跡 大慈恩寺文書(資35,36号)
応永3年(1396) 六郷保郷司職  〃  (資39号)
応永11年(1404) 六郷保内大森永富両所  〃  (資42,43,44号)
応永12年(1405)   〃  〃  (資45号)
応永24年(1417) 六郷保大森永富  〃  (資46号)
六郷保大森郷  〃  (資47号)
永享8年(1436) 荏原郡南品河郷 妙国寺文書(資52号)
享徳2年(1453)   〃  〃  (資60号)
寛正4年(1463) 荏原郡大井郷 大井鹿島神社鰐口銘文『新編武蔵風土記稿』所収
寛正6年(1465) 南品川郷 妙国寺文書(資62号)

 

 保とは中央政府の役所や国庁が領有する地域のよび方である。六郷保は律令郷制の蒲田郷内部に生まれた大森郷・永富郷・蒲田郷・六郷本郷・原郷・堤郷の総称であったらしく、おそらく旧蒲田郷が国衙によって再把握された領域であったろう。六郷という呼称は、江戸時代の六郷領、六郷川(多摩川の下流)、現大田区の町名に伝わっている(第六〇図)。


第60図 六郷保想定復元

 これらの史料は、品川・大田区域、とくに後に述べる大井氏一族の支配領域が、国衙領であることを明白に示す。元暦元年(一一八四)八月に、源頼朝が品川清実に品川郷の雑公事を免除できたのは、同年六月に頼朝が武蔵国の知行国主となり、平賀義信を武蔵守に任命して、武蔵国の国務を沙汰し、国衙領を支配する権限を朝廷から与えられたことが前提になっている。品川郷は当然、頼朝の指揮命令に服さなければならない国衙領であった。このように品川区域が国衙領として現われたことは、平安時代末期から室町時代にかけての大井氏一族の動向と、区域の歴史に大きな影響を与えた。そのことはあとで触れることにしよう。