十二世紀になって、品川および周辺の国衙領を支配した領主が大井氏一族である。大井という姓が、律令制下の駅家郷=大井郷の後身である中世の大井郷に由来することはいうまでもない。
大井氏の本姓は、関東地方ではめずらしい紀姓である。紀氏は説話上の武内宿袮(たけのうちすくね)を祖とし、その木角(きのつの)宿袮が母方の姓を継いだと伝えられる古代の名族である。大和国家時代・奈良時代に大いに栄え、平安時代の延喜年間には、中納言紀長谷雄や『土佐日記』の作者紀貫之(きのつらゆき)、古今和歌集の撰者紀友則など、また藤原純友の乱の初期、西国の海賊鎮撫に功績のあった紀淑人(としと)などを出した。南北朝時代、洞院公定(とういんきんさだ)など洞院家の人々によって編集された『尊卑分脈』所収の「紀氏系図」によると、大井氏は淑人の兄弟淑信から出ている。いま『尊卑分脈』によって、紀長谷雄から大井実春にいたる略系を示すと次のようになる。
ここに示された系譜は、塙保己一(はなわほきのいち)編『続群書類従』所収の「紀氏系図」と大差ない(以下「紀氏系図」と総称する)。
薩摩大井氏の子孫鹿児島県姶良(あいら)郡加治木町大井実澄氏所蔵の系図(以下「大井系図」と略称する)は、次のような系譜を伝えている(第六一図)。
「紀氏系図」とのこまかな比較は省略するが、両者のいちじるしい相違は、「紀氏系図」が長谷雄~守澄系を大井氏の系譜としているのにたいし、「大井系図」は国守~親直系としていることである。一方「紀氏系図」にも、国守―貞範―長谷雄―淑光―文実―重規―知貞―親任―親直という紀氏の一流をのせている。要するに、「大井系図」は、朝雄なる人物を介して「紀氏系図」の文実系と親近性をもっている。しかし十二世紀なかばに、ほぼ実在が確実な大井実直の親について両者は決定的に異なる。「大井系図」は、ほぼ鎌倉時代末までの大井氏一族で中断し、「この間数代腹籠(こも)りて連続たるにより名乗(なのり)を書かず」という文章を置いて、十六世紀なかばごろ島津氏から大隅国姶良(あいら)郡帖佐(ちょうさ)郷の地頭に任命された大井石見守実高(大井実澄氏蔵「紀氏大井二ノ家系図」によると実昌)から江戸時代の系譜を書きついでいる。「大井系図」のこのような体裁は、薩摩大井氏の正確な系譜が不明確になった時期に、大井氏の祖実直を既存の紀氏系図の国守~親直系に付会して成立したことが示唆される。以上によって「紀氏系図」の方が信頼できるといえる。