関東の紀姓武士

205 ~ 206

このように大井氏が紀姓を称することは系図上あきらかであるが、良文流平氏や横山党以下武蔵七党、秀郷流藤原氏や源氏の庶流がひろく繁栄した関東にあって、紀姓の一族が南武蔵の一角に土着し、領主に成長しているのである。このこと自体はなはだ特異である。しかし注意ぶかく周囲を見まわすと、十二世紀の関東に紀姓を称するものがあった。

 保延二年(一一三六)、下総国相馬御厨下司千葉常胤から相馬・立花両郷の証文をとりあげた目代散位紀朝臣季経なるものがいた(「檪木文書」)。鎌倉時代に入るが、文治二年(一一八六)薩摩国島津荘寄郡(よりごうり)の五郡郡司千葉常胤の代官で、現地において非法を働いた紀藤太清遠なる人物がいた(「島津家文書」)。また文治五年(一一八九)頼朝の奥州征討のとき、阿津賀司(あつがし)山合戦に戦功をあげた紀権守正重は宇都宮朝綱の郎従であった(『吾妻鏡』)。下野の紀氏は、芳賀(はが)郡益子(ましこ)に土着した紀権守正隆を祖とする族党で、正重は下野紀党の惣領的地位に立つものであった、という(豊田武『武士団と村落』)。

 下総の目代紀季経はさておき、千葉氏・宇都宮氏という棟梁的豪族領主の代官や郎従に紀氏がみえることは、大井氏の地位を考えるうえに非常に暗示的である。前節で述べたように、房総や北関東では十二世紀半ばごろ、棟梁的武士による中小武士団の統合が進んでいたと考えられるから、もともと郷司・村司級の独立領主であったかれらは、千葉氏や宇都宮氏の勢力下にくみこまれた郎従として現われざるをえなかった。それに反して、武蔵では武蔵七党のような中小武士団の独立性が強く、これらを統合する勢力はない。大井氏の品川区域への土着が比較的遅く(おそらく十二世紀中ごろ)、近隣に同族の分布が少なかったにもかかわらず、独立を保った理由の一つは、そのあたりにあったのではなかろうか。