「紀氏系図」・「大井系図」によると、大井氏一族の始祖は実直である。「大井系図」にいう実直の越中守・紀伊守・武蔵守歴任は信じられないが、実直が大井兵三武者と称し、武蔵にはじめて住んだという記事はおそらく事実だろう。「紀氏系図」には、実直の父守澄は摂津守とあり、叔父久俊は滝口左馬允とあるから、在京の下級貴族ないし武官であったと考えられる。実直の兄遠定は「遠江国中村領主」であったという。前述のように実直の武蔵始住は確実であろうから、十二世紀中葉に遠定・実直兄弟の地方土着の可能性がある。関東の武士たちが十世紀以来、数世代にわたり一族を各地に分出させてきた実情にくらべ、大井氏の土着の時期はいちじるしく遅い。大井氏一族の分布が品川・大田区域の小範囲にとどまったのも土着の時期に関係があるだろう。
しかし問題は、実直が何をきっかけに武蔵へ下り、品川区域を支配する領主になったかということである。それについて現存の史料は何も語らない。なんらか妥当性のある推論を立ててみるだけである。そこで私たちは品川区域が国衙領であったことを思い出そう。大井氏は国衙領たる品川郷・大井郷・六郷保などを支配する郷司級の領主として現われた。そこに大井実直と武蔵国衙との間になんらかの関係を考えなければならないだろう。
おそらく十二世紀前半期の知行国主(このころの武蔵の知行国主の名前はほとんどわからない)か国守か、あるいは目代と実直との間につながりがあり、武蔵に下って国衙と関係し、品川区域の国衙領の支配をゆだねられたのではなかろうか。この推論は、まったく実証性がないが、大井氏をとりまくいくつかの条件からみちびかれる考え方である。いずれにせよ、私たちは大井実直の実在と、かれの品川区域の支配をほぼ認めることができる。そして品川区域が古代律令国家から脱け出し、中世の品川がはっきりと浮かび上がってくることを、大井実直の存在によって知らされるのである。