大井氏一族

207 ~ 209

大井実直の所領は五人の子息に分割された。「紀氏系図」は、実直の子息たちを次のように表わしている。

 伊坂平太と称する長男実重は、大井氏の本家を継がず相模国高座郡の豪族渋谷重国の嫡子光重の養子となった。『入来院氏系図』(朝河貫一編『入来文書』所収)によると、渋谷光重の次男に早川二郎実重がおり、宝治二年(一二四八)に、三男吉岡重保(のち祁答院氏)四男大谷重諸(しげもろ)(のち鶴田氏)、五男曽司(そし)定心(のち入来院氏)、六男落合重貞(のち高城氏)とともに薩摩に下り、東郷氏の始祖となった。この早川二郎実重と、光重の養子となったという伊坂平太実重は、同一人ではなかろうか。伊坂平太という通称の由来を検討することに、この疑問を解く鍵がありそうである。


 大井氏の本家は次男実春が相続した。その通称兵三二郎は、兵三武者実直の次男であることを物語っている。相続した所領は、大井氏の本拠地大井郷および六郷保内大森・永富両郷であったろう(資二号)。実春は鎌倉幕府草創期に活躍する。三男清実は品川郷を相続し、はじめて品川氏を称した。元暦元年(一一八四)に頼朝から下文を与えられた品川三郎その人である。

 四男実高は春日部を称した。春日部は現在の埼玉県春日部市域である。実直の所領がそこにもあったのであろう。五男実元は大井郷不入斗(いりやまず)村潮田を領して潮田姓を称し、六男実能は六郷保内堤郷を領し堤姓を唱えた。

 「大井系図」は実直の諸子を次のように載せ、「紀氏系図」と異同がある。


 中世武士の家名は、その所領支配の根拠地とした所の地名に由来する。したがって十二世紀後半における大井氏一族の分布圏を現品川区の大井と、大田区大森北一~六丁目(旧不入斗村)からなる大井郷、現大田区域の六郷保(第六〇図参照)と、埼玉県春日部市域に比定できる。

 「大井系図」では、大井氏一族の惣領大井実春が元久三年(一二〇六)に死んだという。この伝えを事実と仮定し、かりに実春の没年を七十歳とすると、実春の出生は一一五〇年代となる。またかりに実春が父実直から所領を譲られた年齢を二十歳とすると、その時期は一一七〇年代となる。品川氏以下諸氏の分出も同じころであったろう。一一七〇年代は全盛に達した六波羅政権の平氏が、やがて後白河法皇と対立し、反平氏の気運のなかに孤立していく時代である。源頼朝は治承四年(一一八〇)に挙兵した。鎌倉時代の開幕は目前に迫っている。こうした歴史の大きな転換を準備した時代、大井氏は南武蔵の一角に一族を分出し、やがて中世の品川を担う勢力に成長すべく、所領と農民支配に懸命の努力をはらっていたはずである。