大井氏の居館の跡は、はっきりわからない。しかし品川区西大井五丁目(旧大井金子町)の金子山を大井氏居館とする伝えがある。この伝承が正しいとすると、金子山の西北から東南にかけひろがる水田地帯(大田区東馬込一丁目から中央二・三丁目のびる谷田)を見わたすかっこうの場所である。
品川氏の居館もはっきりしないが、現品川区広町二丁目(旧大井権現町、国鉄大井町駅西側)の権現台とする説がある。しかし権現台は南と北を低地に限られた狭小な台地で、中世の居館構築の適地とは思われない。筆者は確証はないが、区立戸越公園がふくまれる方形の地割りに中世の居館の名ごりをみるのである。明治四十三年(一九一〇)測図の一万分の一地形図(『品川区史』地図統計集所載)によると、戸越公園一帯の前身である三井邸・三井農場は、東西二・五町、南北三町の正確な方形をなし、周囲の土塁がはっきり描示されている(第六二図)。三井農場の前身は熊本藩細川家の抱屋敷であるが、江戸時代の大名の抱屋敷にこのような方形の地割りをした例はない。しかも弘化元年(一八四四)「品川領宿村門前町絵図」(『地図統計集』付図)には、品川用水の分水を土塁にそってまわしている描示がある。しいて言えば、土塁外縁の堀跡を品川用水の流路に利用したのではないか、ということである。
さらに公園内には自然湧水がある。この湧水が豊町二丁目から西品川四・五丁目さかいにのびる狭小な谷田(ほぼ東海道新幹線の高架に沿う)の唯一の水源であり、現国鉄大井工場から旧品川宿の西側にひろがる広町耕地・三竹耕地を灌漑する水源の一つになっているのである。
一般に中世の在地領主は、本来律令国家のもとにあった公的権限を分割継承して領主権の一部としているが、水田農業の欠くことができない河川管理、池溝の造成・維持・保全等の機能は在地領主が国家からうけついだ公権の重要部分であった。灌漑用水をにぎることによって農民を支配できたのである。湧水源を居館のなかにとりこんでも不思議ではない。以上のようないくつかの徴証――方形地割り、土塁と堀の残存、湧水のとりこみなどは、戸越公園付近が典型的な中世の居館=堀の内の特徴をそなえているといえるのではないか。そこに品川氏の居館を求める可能性を示して後考を期したい。