源頼朝の挙兵

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大井氏が品川区域に土着し、領主へ成長した十二世紀後半、中央政界では伊勢平氏が覇権を確立した。将門(まさかど)の乱に功があった平貞盛の孫維衡(これひら)が寛弘三年(一〇〇六)伊勢守に任ぜられ、伊勢平氏の祖となった。子孫が伊勢を地盤に勢力を伸ばし、やがて十一世紀末の永長二年(一〇九七)に正盛が所領を六条院に寄進して北面の武士となり、源義家の子義親討伐の功により但馬守(たじまのかみ)になった。子忠盛も上皇に近侍し、鳥羽上皇の時に院の昇殿を許された。そのころ、一族の分裂と、院の圧迫で勢力をけずられた源氏にくらべて、平氏は順調に成長し、貞盛以来の念願であった中央政界への進出をはたしたのである。忠盛の子清盛は、保元・平治の乱を勝ち抜き、仁安二年(一一六七)はじめて武門出身の太政大臣になり、清盛を頂点に公卿(くぎょう)(官は参議以上位は三位以上)一六人、殿上人(でんじょうびと)二十余人、知行国三十余国をかぞえるという政権を樹立した。

 平氏政権の歴史的評価については議論が多いが、平氏が武士の出身であることから、その政権の基盤が武士階級にあると考えるわけにいかない、という説が一般的である。平氏がもともと院の傭兵的武士であり、政権樹立のために、女子を天皇の妻妾に入れて皇子の外戚となり、朝廷内部の影響力を独占するという摂関政治に通ずる方法をとったこと、また平氏の経済的基盤は知行国にあり、一族が知行国主になるためには、もっぱら律令制の官職を獲得する努力を払わなければならなかった、という指摘もされている。平氏は武士出身でありながら、律令制国家のそとに、独自の武家政権を作ることができず、地方で国衙と対立し、領主に成長した武士の要求をみたせなかったばかりでなく、政権から排除された反平氏の貴族たちを、後白河法皇のまわりに結集させ、京都の支配者層内部でも孤立して、急速に没落の道をたどったのである。

 

 治承三年(一一七九)清盛は反平氏貴族を追放し、後白河法皇を捕えた。このクーデターは、京都と地方の反平氏勢力に決起のきっかけを与えた。翌治承四年(一一八〇)四月、源氏一族の源頼政は、後白河法皇の第二皇子以仁(もちひと)王にすすめて平氏追討の令旨(りょうじ)を東海・東山・北陸の源氏に下させた。この計画は平氏に知られ、準備がととのわないまま五月に頼政が挙兵して、宇治の平等院で以仁王と頼政らが敗死して終わったが、以仁王の令旨をうけた源頼朝と木曽義仲は、それぞれ伊豆と信濃で兵を起こし、以後五年間にわたる全国的な動乱のうちに平氏が滅亡するきっかけになった。


第63図 源頼朝像

 頼朝は平治の乱(一一五九)の父義朝の敗戦で平氏に捕えられ、一命を助けられて翌永暦元年(一一六〇)に伊豆に流された。その時十四歳であった。それから二〇年の歳月、流人の生活を送ったが、治承元年(一一七七)ころ、伊豆の在庁官人(ざいちょうかんじん)北条時政の娘政子と結ばれ、時政の保護と援助を得ることができた。以仁王の令旨は四月二十七日に伊豆北条館の頼朝のもとにもたらされたが、頼朝の挙兵は八月十七日であった。平氏が諸国の源氏の討伐を決意したからには、頼朝は坐して運命の急迫を待つか、思いきったかけを打って、運命の打開をはかるかの決断を迫られたのである。かれは日ごろ出入の武士、その多くは父祖以来の家人(けにん)たちを集め、田方郡山木館にいた伊豆国目代(もくだい)山木兼隆を急襲して殺し、挙兵ののろしをあげた。ついで一日おいた十九日、伊豆蒲屋御厨(みくりや)に下文(くだしぶみ)を与え、「東国にいたりては諸国一同の庄公みな御沙汰たるべきの旨、親王宣旨明鏡(めいきよう)(明白)なり」と宣言した(『吾妻鏡』)。要するに、すでに三ヵ月前に敗死してしまった以仁王の令旨をふりかざし、以仁王から東国の国衙領と庄園のすべての支配権をまかせられたのだ、と主張したのである。