伊豆国目代山木兼隆の討伐と、「関東施行の始め」(幕府政治の開始)といわれる蒲屋御厨あての下文で示した態度は、頼朝のその後の軍事行動と、施策の方向をはっきり現わしている。よく知られているように、頼朝は伊豆から相模に出る途中の八月二十三日、石橋山(小田原市石橋)で、平家方の大庭景親(おおばかげちか)が率いる軍勢に敗れ、箱根山に潜伏してから相模湾を横ぎり、安房猟島についた。そして敗残の身にもかかわらず、安房の安西景益(あんさいかげます)に「令旨厳密のうえは、在庁らを相催し参上」せよ、「当国中、京下の輩においては、ことごとくもって搦(から)め進ずべし」(『吾妻鏡』)と命じた。ついで千葉常胤に命じて下総目代を討たせた。このような一連の方策は、「中央の代表者として現地におり、領主化してゆく在庁官人と直接対立・抗争していた目代の討滅をスローガンとして在庁を結集しつつ、国衙機構を支配下にくり入れてゆく」(石井進「鎌倉幕府論」岩波講座『日本歴史』5)という、頼朝の一貫した態度の現われであった。多感な青年時代を東国で流人として過ごした頼朝は、在庁官人・郡郷司ら在地領主たちの不平不満を肌に感じとり、かれらの要求を一つの力に結びつけた。頼朝の政治的力倆は、なみなみならぬものであったといわなければならない。
十月二日、頼朝は精兵三万余騎をひきいて下総から武蔵に入り、豊島清元・葛西清重・足立遠元らの錚々(そうそう)たる豪族が出むかえた。四日には、長井渡(ながいのわたし)(三河島あたり)に畠山重忠・江戸重長が来属した。江戸重長は大庭景親にしたがい石橋山で頼朝を攻撃したが、頼朝は葛西(かさい)清重を通じて来属をうながしていたのである。五日、頼朝は江戸重長に、武蔵国の在庁官人と諸郡司に対する命令権を与えた。鎌倉殿(頼朝)御家人としての大井氏一族の地位は、この時にきまったであろう。なぜならわたくしたちは大井・品川氏らを、品川・大田区域の郷司と推定したが、頼朝に従うことが有利と考える情勢判断のほかに、もともと国衙(こくが)の命令系統に属した大井氏一族は、頼朝から武蔵の国務の執行を命ぜられた江戸重長の指揮下に入らなければならなかったからである。頼朝は十月六日に鎌倉へ入った。頼朝の軍勢が旧東海道を通ったとすれば、大井郷を経て相模へ抜けたかもしれない。
平維盛(これもり)指揮下の追討軍を駿河富士川に破った頼朝は、鎌倉へ帰還の途中の十月二十日、相模国府で部下の論功行賞を行ない、武士たちの所領や諸権利を保証した。『吾妻鏡』には北条時政・武田信義・安田義定・千葉介常胤・三浦介(みうらのすけ)義澄・上総介(かずさのすけ)広常・和田義盛・土肥実平等ら名だたる武士しか記録されていないが、頼朝が武蔵に入ったときに大井氏一族の臣属を推定したわたくしたちは、当然このときに、大井氏の本領が頼朝から保証されたと考えてよい。
このようにして頼朝の挙兵は、あざやかな成功をおさめた。成功の最大の理由は、頼朝がたんに源家累代の家人という関東武士の心情に訴えてかれらを組織しただけではなく、各国の軍事警察権をにぎる在庁官人→郡郷司→名主・地主という、現実に形成されていた支配秩序を、頼朝のもとにくみ入れたことにあった(石井進前掲書)。この体制を下部機構として、頼朝は軍事機関=侍所(さむらいどころ)、行政機関=公文所(くもんじょ)(のち政所(まんどころ))、訴訟機関=問注所(もんちゅうじょ)という補佐機関を鎌倉に置き、関東中心の占領地域の事実上の君主におさまった。頼朝を盟主とする在地領主たちの小国家の成立である。挙兵の直後、京都の貴族の一人九条兼実が、その日記に「かの義朝の子、大略謀叛(むほん)を企てるか、あたかも将門(まさかど)のごとし」、「伊豆国流人(るにん)源頼朝、たちまち凶徒凶党を相語(かた)らい、当国(伊豆)隣国を虜掠(りよりやく)せんと欲す』(『玉葉』)と書いて、二五〇年まえの将門の乱を思い出し、頼朝の関東奪取を恐れたが、それが現実になったのである。