頼朝は実力で関東を支配したとはいえ、中央政府からみれば叛乱をおこした流人で、朝敵にすぎなかった。かれはこの弱点をたちきり、実力支配を公認させるためにすぐれた政治力を発揮した。
寿永二年(一一八三)九月、後白河法皇に書状を送り、東海・東山・北陸諸国の国衙領と庄園を、もとのように国主・本所(庄園領主)に領知させるよう、朝廷から命令を出していただきたいと要請した。すでにこの年の六月、平氏を逐って北陸道から京都に入った木曽義仲は後白河法皇と対立し、知行国主や庄園領主は、頼朝や義仲の占領地からの年貢が止まって困惑していたので、頼朝の提案は京都の貴族たちを喜ばせた。十月に入って、頼朝の要請から北陸道(義仲の占領地)を除き「東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領荘園、もとのごとく領家に従うべし、不服の輩あらば頼朝に触れて沙汰いたすべし」(『玉葉』)ということを内容とする後白河法皇の宣旨(せんじ)が発布され、宣旨の実施は頼朝にゆだねられた。この宣旨の具体的内容は、頼朝が東海・東山諸国における①宣旨違反者に対する裁判権・強制執行権・治安警察権を獲得し、②国衙領・庄園の年貢上進が頼朝によって保証され、その結果③頼朝は反古(ほご)にすぎない以仁王の令旨をふりかざした実力支配から抜け出し、あたらしい権威を身につけたと評価されている(石井進前掲書)。また国家公権の一部が一私人頼朝に委譲されたことを重視し、国家的存在としての幕府の成立時期をこの宣旨が発せられた時とも考えられている(佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』)。
元暦元年(一一八四)から文治元年(一一八五)にかけて、頼朝は木曽義仲との戦い、平氏一族討滅の戦いを、朝命をうけた追討使として戦い、勝利をおさめた。その過程で頼朝は、兵粮米(ひょうろうまい)を諸国の国衙領や庄園にわりあてるため、有力御家人を国衙の総追捕使・守護人に任命した。また郡郷司や庄園の下司を戦闘に参加させるため、かれらが現実に支配する土地の地頭に任命した。有力御家人に国衙を押さえさせて一国の支配を実現し、国内の武士を御家人化していく方式は、挙兵当時の方策の拡大であった。
平氏滅亡後、よく知られているように、頼朝と弟の義経との不和が爆発した。文治元年(一一八五)十月、義経は叔父の行家とくみ、後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣(いんぜん)を出させたが、軍勢の徴兵に失敗して逃亡した。頼朝はこれを好機に北条時政を上洛させ、義経・行家の逮捕を名目にして、北条時政以下の頼朝の家人に、畿内以西の国衙・庄園の区別なく、一段あたり五升の兵粮米を徴集する権利を与えるように朝廷に要求し、それが認められた。いわゆる守護・地頭の設置である。頼朝は「日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭」になり、その権限を分与するかたちで、有力御家人を国単位の「総追捕使・地頭」に、郡郷司・下司クラスの御家人を郡・郷・庄・保の地頭とした。その結果、地方の国衙は総追捕使・国地頭(のちの守護)に掌握され、郡・郷・庄・保は地頭に管理されることになった。
要するに、頼朝は地方の行政・軍事組織と、国衙領や庄園に御家人を配置し、かれらを任免し指揮し動員する権限を一手におさめたのである。頼朝はこの政策を「天下草創」=新らしい国家の創造という、はっきりした認識をもって強行した。挙兵以来、一貫して追求してきた目標に到達したのである。日本の中世の夜明けをかざり、日本史の大きな曲り角を画した事件といわなければならない。
鎌倉時代初期政治史に関する研究水準はきわめて高い。したがって、明治時代から今日まで、多くの問題についてはげしい論争がたたかわされ、多くの仮説が立てられ、批判され、新学説が出されてきた。いったい鎌倉幕府が成立したのはいつか、文治元年に勅許された守護・地頭の権限は何か、等々の問題である。ここで述べた大筋は最近の学説によったが、論争に決着がついたわけではない。この問題には石井進『鎌倉幕府』(中央公論社『日本の歴史』7)が参考になろう。
以上、鎌倉幕府成立の過程を、頼朝の行動を中心にたどってみた。そこでは、あまりに頼朝を、歴史の転回期の主役とみなしすぎたかもしれないが、頼朝は当時の武士の要求を的確につかみ、しかも政治的中心をもたない孤立分散的な武士を、一つの勢力に結集したからこそ、歴史の主役になれたのであって、頼朝の天才的頭脳にやどった夢想の結果では決してなかった。いいかえれば、頼朝をそのように判断させ、行動させた条件を準備したのは、在地領主たる武士たちであり、その意味では、初期の鎌倉幕府は、頼朝を頂点に押し上げて作りあげた関東の武士の政権であった。大井氏一族もその一員であった。かれらは頼朝の御家人となり、政権に参加することによって、中世の品川をになう主役となり得たのである。わたくしたちは、十二世紀後半の品川区域に、大井氏や品川氏が現われた、という事実を知るだけにとどまらずに、当時のありのままの情況を念頭において、かれらの歴史的性格と役割を考えたいと思う。