前節で述べたことを念頭に、鎌倉時代における大井氏一族の動きを、やや詳しく追ってみよう。次頁の系図は、前編第四章第二節にかかげた『尊卑分脈』紀氏系図のつづきである。そして第11表で『吾妻鏡』に記録された大井氏一族の動向を年表風に示し、『吾妻鏡』と「大井文書」・「田代文書」・「高野山文書」(『区史資料編』のうち中世編所収文書参照)で生存が確認できる人物の年次を第12表で表わした。
年月日 | 大井氏 | 品川氏 | 春日部氏 | 重要事項 |
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元暦元年(一一八四)三月二二日 | ○頼朝の命により、大井兵衛次郎実春が伊勢における平氏の残敵討伐のために出発する。 | 治承四年(一一八〇)源頼朝挙兵、鎌倉に拠る。 | ||
寿永二年(一一八三)源義仲京都に入り、平氏を西海に逐う。 | ||||
元暦元年(一一八四)源義仲滅亡。 | ||||
〃 五月四日 | ○大井兵衛次郎実春らが、志田義広を伊勢羽取山で殺す。 | |||
文治元年(一一八五)二月一日 | ○品河三郎(清実)らが源範頼に従い豊後に渡り、大宰少弐原田種直らを討つ。 | 文治元年(一一八五)平氏滅亡、源義経追放、守護・地頭設置 | ||
〃 一〇月二四日 | ○鎌倉南御堂長勝寿院供養に大井兵三次郎実春が随兵に加わる。 | |||
〃 一一月一二日 | ○義経の連座により河越重頼の所領が没収され、そのうち伊勢国香取五カ郷が大井兵三次郎実春に与えられる。 | |||
文治三年(一一八七)三月一〇日 | ○土佐国住人夜須行宗の文治元年壇の浦合戦の戦功に関する梶原景時との相論に、春日部兵衛尉(?)が証人となり、行宗の勝訴となる。 | |||
文治四年(一一八八)三月一五日 | ○鶴岡道場大法会に大井次郎実治が随兵に加わる。 | |||
文治五年(一一八九)七月一九日 | ○頼朝の奥州征伐に大井二郎実春が鎌倉より供奉する。 | 文治五年(一一八九)源義経藤原泰衡滅亡 | ||
建久元年(一一九〇)一一月七日 | ○頼朝の入京に大井四郎太郎(?)大井四郎(秋春)が先陣随兵に、品河三郎(清実)・大井次郎(実久)・品河太郎(実光)・大井五郎(?)が後陣随兵に加わる。 | 建久元年(一一九〇)頼朝、権大納言兼右大将に任ぜられ、ついで両官を辞する。 | ||
建久二年(一一九一)二月四日 | ○頼朝の二所参詣に、大井二郎(実久)・品河太郎(実光)が随兵に加わる。 | 建久二年(一一九一)頼朝、政所を設置。 | ||
閏一二月七日 | ○頼朝が三浦義澄邸に遊び、大井兵衛二郎(実春)らに相撲をとらせる。 | |||
建久三年(一一九二)一一月一三日 | ○頼朝が鎌倉二階堂永福寺に築庭し、大井次郎(実久)らが巌石を運ぶ。 | 建久三年(一一九二)後白河法皇没し、頼朝征夷大将軍になる。 | ||
建久六年(一一九五)三月一〇日 | ○頼朝の東大寺参詣に、大井次郎(実久)・品河太郎(実光)・大井兵三次郎(実春)が随兵に加わる。 | |||
〃 五月二〇日 | ○頼朝の天王寺参詣に大井兵三次郎(実治)が随兵に加わる。 | |||
正治元年(一一九九)一〇月二八日 | ○梶原景時追放要求の御家人連署に、大井次郎(実久)が加わる。 | 正治元年(一一九九)頼朝没し、頼家が継ぐ。 | ||
正治二年(一二〇〇)二月二六日 | ○頼家の鶴岡八幡参詣に大井次郎(実久)が甲着の役をつとめる。 | |||
建仁三年(一二〇三)頼家廃され、実朝が継ぐ。 | ||||
元久元年(一二〇四)頼家殺される。 | ||||
元久二年(一二〇五)正月一日 | ○北条時政が実朝に馬と剣を献じ、春日部二郎(?)が馬引きの役をつとめる。 | 元久二年(一二〇五)北条時政廃され、義時が執権となる。 | ||
〃 六月二二日 | ○北条義時が武蔵二俣河に畠山重忠を討つ。大井・品河・春日部・潮田らの大井氏一族が幕府軍に参加する。 | |||
建保元年(一二一三)八月二六日 | ○実朝の大江広元邸移徙に大井紀右衛門尉実平が随兵に加わる。 | 建保元年(一二一三)和田義盛滅亡。 | ||
建保二年(一二一四)七月二七日 | ○実朝の鎌倉新御堂大慈寺供養に大井紀右衛門尉実平が随兵に加わる。 | |||
建保六年(一二一八)六月二七日 | ○実朝の左大将拝賀の鶴岡八幡宮参詣に、大井紀右衛門尉実平が随兵に加わる。 | |||
承久元年(一二一九)正月二七日 | ○実朝の右大将拝賀の鶴岡八幡宮参詣に、大井紀右衛門尉実平が随兵に加わる。 | 承久元年(一二一九)実朝が暗殺される。 | ||
承久三年(一二二一)六月一三~一四日 | ○承久の変、宇治橋合戦に大井左衛門三郎(?)・品河小三郎(実貞)・品河四郎太郎(?)・潮田四郎太郎(?)・大井太郎(?)が敵を討ち取り、品河四郎(春員)が負傷し、潮田六郎(実成)・品河次郎(信実)・品河四郎三郎(?)・品河六郎太郎(?)が戦死する。 | 承久三年(一二二一)承久の変、後鳥羽上皇敗れる。 | ||
元仁元年(一二二四)北条義時没し、泰時執権となる。 | ||||
安貞二年(一二二八)七月二三日 | ○将軍頼経の三浦義村別荘遊覧に春日部太郎(?)が随兵に加わる。 | 嘉禄二年(一二二六)藤原頼経将軍となる。 | ||
嘉禎二年(一二三六)八月四日 | ○将軍頼経の新御所移徙に春日部左衛門尉(?)が供奉する。 | 貞永元年(一二三二)御成敗式目が制定される。 | ||
暦仁元年(一二三八)二月一七日 | ○将軍頼経の入京に、大井三郎(?)・品河小三郎(実貞)・春日部三郎兵衛尉(?)・大井太郎(?)が随兵に加わる。 | |||
〃 六月五日 | ○将軍頼経の春日社参に、品河小三郎実貞が随兵に加わる。 | |||
仁治元年(一二四〇)八月二日 | ○頼経の二所参詣に品河小三郎(実貞)・春日部三郎兵衛尉(?)が随兵に加わる。 | |||
寛元元年(一二四三)七月一六日 | ○由比浦の風伯祭に春日部大和前司(実平)が祭料を献ずる。 | |||
〃 七月一七日 | ○将軍の臨時御出の供奉人結番を定め、大和前司(実平)・春日部甲斐守(実景)が上旬の結番衆となる。 | |||
寛元二年(一二四四)八月一五日~一六日 | ○将軍頼嗣の鶴岡八幡宮放生会出御に春日部甲斐前司実景が随兵に加わる。 | 寛元二年(一二四四)将軍頼経がやめ、頼嗣が継ぐ。 | ||
○鶴岡八幡宮の流鏑馬神事に、春日部甲斐守(実景)・子息次郎兵衛尉が参加する。 | 寛元四年(一二四六)北条光時の変、前将軍頼経が京都に送還される。 | |||
寛元四年(一二四六)正月六日 | ○御弓始に春日部次郎(?)が射手をつとめる。 | |||
〃 八月一五日 | ○鶴岡八幡宮放生会に春日部次郎兵衛尉(?)・春日部甲斐前司実景が随兵に加わる。 | |||
宝治元年(一二四七)五月一四日 | ○将軍頼嗣夫人の葬送に春日部甲斐前司実景が加わる。 | |||
〃 六月五日 | ○鎌倉法華堂において、三村泰村一族与党とともに春日部甲斐前司実景・同太郎(?)・同次郎(?)・同三郎(?)が自殺する。 | |||
〃 六月一〇 | ○春日部甲斐前司実景の子息嬰児一人が武蔵国から鎌倉に着く。 | |||
〃 六月二三日 | ○春日部甲斐前司実景の幼息一人が武蔵国から鎌倉に着く。 | |||
建長二年(一二五〇)三月一日 | ○閑院内裏造営に大井左衛門尉(秋春か)が二条通りの、品河三郎(清実)の後継者が油小路通りの築地塀の築造を負担する。 | |||
建長四年(一二五二)将軍頼嗣廃され、宗尊親王が継ぐ。 | ||||
正嘉二年(一二五八)三月一日 | ○将軍宗尊親王の二所参詣に、品河右馬允(為清)が随兵に加わる。 | |||
弘長三年(一二六三)八月二五日 | ○春日部左衛門三郎泰実が美濃国指深庄地頭職を没収される。 |
(注)人名表記は『吾妻鏡』の表記のまま用いる、( )内は推定実名、(?)は実名不明。
これらのうち、どれがもっとも確実な史料か、というと、特定の目的をもって、その時に作成され、授受者相互の間に特定の効力をもたらした「文書(もんじょ)」と呼ばれる史料(ここでは「大井文書」等)である。したがって、偽文書でないかぎり、文書上に現われる人物の実在がもっとも確実である。次に『吾妻鏡』は鎌倉時代の中期から後期にかけ、幕府が保存した記録類をもとに、編纂された書物であるが、編纂にあたり、その時の政治的配慮から曲筆や作為がほどこされていたり、不正確な文章や誤りもあって、記述の内容をそのままうのみにできない。『尊卑分脈』は比較的信頼できる系図であるが、室町時代の編纂であり、たしかな史料と一致しないかぎり、無条件に信ずるわけにいかない。このような史料としての質と制約を念頭において、大井氏一族を概観してみよう。
鎌倉幕府の正式記録である『吾妻鏡』によると、一族の惣領大井実春(さねはる)が、もっとも早く元暦元年(一一八四)に記録されている。ついで建久元年(一一九〇)に四郎太郎・四郎(秋春)・次郎(実久)・五郎の四人が現われるが、四郎秋春が薩摩大井氏の祖となって「大井文書」にみえ(資二・三・九号)、次郎実久が十二世紀末期の九十年代に四回記録されるほか、四郎太郎・左衛門三郎の姿は消えてしまう。十三世紀に入って、紀右衛門尉(きえもんのじょう)実平が、大井氏のうちの主要人物らしい姿を見せ、ほかに太郎・左衛門三郎・三郎・左衛門尉らが散見する。このうち承久三年(一二二一)の左衛門三郎と、暦仁元年(一二三八)の三郎は同一人物かもしれず、後述(第二節)のように、左衛門尉は四郎秋春の晩年の姿かもしれない。このように実在の人物を『尊卑分脈』の系図にあてはめてみると、両方に共通するのは実春のみで、ほかは一人も一致しない。あとで触れるように、一族の中心的人物と思われる実久・実平さえも系図に出てこない。わずかに系図上の二郎実忠が、『吾妻鏡』の次郎実久の誤りか、と考えることが許されるのみである。
品川氏の場合は、品川氏の祖、三郎(清実)がまず最初に『吾妻鏡』にみえ、ついで太郎(実光)が建久元・二年(一二九〇・九一)に記録されてからしばらくとだえ、承久三年(一二二一)の宇治橋合戦の記録に多くの名をとどめている。小三郎(実貞)・四郎太郎・四郎(春員)・二郎(信実)・四郎三郎・六郎太郎である。その後、小三郎実貞が暦仁元年(一二三八)・仁治元年(一二四〇)にふただび姿をみせ、正嘉二年(一二五八)に右馬允(為清)が記録されるほかは、四郎太郎が不明になる。しかし『吾妻鏡』に現われない清経・清尚らが、田代(たしろ)文書や高野山文書にみえてくる(資五・七・八・一〇・一一・一二・一五・一八・二一・二二号)。こうしてみると、系図上の仮名(けみょう)(通称)を一応信ずるとすれば、品川氏の比較的多くの人について、実在の人物を系図にあてはめることができる。
春日部(かすかべ)氏は、『吾妻鏡』に文治三年(一一八七)の記事として兵衛尉(ひょうえのじょう)が、元久二年(一二〇五)に二郎がみえる。その後、安貞二年(一二二八)から宝治合戦で滅亡するまでの時期に集中して、太郎・左衛門尉・三郎兵衛・大和前司・甲斐守ないし甲斐前司実景・次郎・三郎が記録されている。実景以外の実名は不明で、系図上にも求められない。しかし系図によると実景の父は大和守実平とあり、『吾妻鏡』の大和前司と同一人であろう。春日部大和前司=大和守実平とすると、大井氏の紀右衛門尉実平との関係が浮かび上がってくる。あえて推定をこころみると、大井実平は同族春日部実高の養子に入って春日部氏を継いだのではないか、ということである。大井紀右衛門尉実平=春日部大和前司実平の可能性は、紀右衛門尉実平が大井氏の系図に見当たらないこと、両者の生存期間がさして離れていないことの二点から推定して、まったく成りたたないことではない。なお『吾妻鏡』には弘安二年(一二七九)に左衛門三郎泰実の名がみえ、系図の記載と一致する。実景の嫡流かどうかわからないが、春日部氏の滅亡後生き残った人であろう。
鹿児島県姶良郡加治木町大井実澄氏所蔵「大井系図」は、春日部氏の系譜を次のように書いている。
これによると「四郎」を称する実平が春日部氏の始祖であり、実平の子実高が大和守とある。『尊卑分脈』紀氏系図の春日部氏系譜と父子の関係が逆になっている。両系図の異同については後考を期したい。
潮田氏については、宇治橋合戦に敵一人を討取った四郎太郎と、戦死した六郎が『吾妻鏡』に記されているのみである。四郎太郎の実名と系譜は不明であり、六郎が系図上の潮田氏の祖、五郎実元の曽孫六郎実成と同一人物であるかどうか、やや世代が離れているから不確かであるが、ここでは一応同一人としておきたい。
堤氏のことは、ほとんど不明である。『吾妻鏡』の文永三年(一二六六)一月十一日の御弓始の記事に、堤又四郎が四番射手としてみえるだけである。
以上の作業を基礎にして、主に『吾妻鏡』の記述によって、大井・品川二氏の動向を追ってみる(第11表参照)。