『吾妻鏡』の元暦元年(一一八四)三月二十二日条に、大井氏の総領大井実春がはじめて現われる。これよりさき、一の谷合戦(二月)が終わり、平家が四国の屋島に敗走して、戦局は一段落をつげていたが、平家の残敵が、かつての平家の本拠地伊勢に潜伏しているとの風聞があった。頼朝は三月二十日に大内維義を伊賀国守護に任命し、翌々日大井実春に伊勢への進発を命じたのである。頼朝が、なぜとくに実春を起用したか明らかではない。おそらく後述のように、人に知られた実春の勇猛をたのもしく思ったのであろう。
伊賀・伊勢地方には、平家一門の都落ちに従わなかった庶流や家人たちが潜伏し、瀬戸内海に没落した本軍と連絡をとりながら、畿内の攪乱、京都の奪回の機会をうかがっていたであろう。頼朝はこのような危険を予見して、京都の足もとをうかがう平家の与党を徹底的にたたくとともに、平家本来の本拠を完全に制圧する処置をとったのである。はたして同年七月に、伊賀で平家の与党が兵をあげ、守護大内維義の家人を襲って殺害した。維義はただちに反撃して、張本人の富田家助らを殺し、関信兼の子息と上総介忠清は逃亡した。ちなみに関信兼は、頼朝が四年前の挙兵の血祭りにあげた伊豆国目代山木兼隆の父である。実春が平家与党鎮圧の戦闘に参加したかどうかわからないが、それ以前の五月四日に、伊勢羽取山で、波多野義定・山内経俊・大内維義の家人らとともに志田義広を滅ぼしている。実春は頼朝の起用にこたえ、頼朝の恨み深い志田義広討滅に戦功をあげたのである。このことが実春に対する頼朝の信頼を高めたにちがいない。
志田義広は源為義の子、頼朝の叔父で、常陸志田に住み、挙兵後の頼朝に敵対した。寿永二年(一一八三)二月、兵を挙げて鎌倉襲撃を企てたが、途中下野の野本で迎撃した小山朝政に敗れ、木曽義仲に頼り、義仲と行動を同じくした。義仲滅亡後、伊勢に潜伏して実春らに殺されたのである。なお義広の挙兵を『吾妻鏡』は養和元年(一一八一)閏二月とするが誤りで、寿永二年(一一八三)が正しい(石井進「志田義弘の蜂起は果して養和元年の事実か」『中世の窓』11)。
翌文治元年(一一八五)正月一日、義経が後白河法皇の院に参内したとき、実春は大江広元の代官として殿上の公卿を饗応する役(〓飯(おおばん))をつとめた(「大夫尉義経畏申記」『郡書類従』巻一〇八所収)。前年九月、頼朝の弟範頼(のりより)を総大将とする幕府の大軍が平家追討の院宣をうけて京都を出発し、年末には周防・長門に進出し、九州渡海を計画して平家を圧迫していた。義経は頼朝の奏請を経ずに左衛門少尉(さえもんしょうじょう)(判官)に任官して頼朝を激怒させたために、この出征に用いられず、京都に駐在していた。正月元日の院における実春の〓飯役(おおばんやく)勤仕は、かれの在京を示すとともに、義経の身近にあって、ひそかに義経を監視する一人であったかもしれない、という想像をわたくしたちにいだかせる。
範頼が豊後に入ってから平氏方の軍に囲まれて動けなくなったために、頼朝はやむをえず義経を起用したので、義経は西下して、長門に向かうのであるが、同年三月の壇の浦合戦にいたる平家追撃戦での、実春の行動は判らない。しかし、この年の十月、頼朝の父義朝の追善のため、鎌倉に建立された大御堂(おおみどう)長勝寿院の落慶(らっけい)供養には、畠山重忠ら有力御家人一四人からなる先陣随兵のうちに実春をみることができる。武蔵の片すみの郷司級武士が、畠山・千葉・三浦・葛西・武田・北条・小山らの有力在庁官人クラスの豪族に互して、行列の先陣をつとめたのであるから、破格の処遇であったのではなかろうか。
ついで同年十一月に、実春は伊勢国香取五ヵ郷(現三重県桑名郡多度町香取)を頼朝から与えられた。地頭職(しき)であったろう。頼朝と義経の不和はこの年の十月に爆発し、義経は挙兵に失敗して京都から逃亡した。頼朝は義経の妻が武蔵の豪族河越(かわごえ)重頼の娘であった関係から、重頼の所領を没収し、その老母に預けたのであるが、そのうちの香取五ヵ郷をさいて実春に与えたのである。実春に対する信頼のほどがうかがえる。五ヵ郷のうち、上郷がのち薩摩大井氏に伝えられたことは後に述べたい。
その後、実春の名は第11表のように文治四年(一一八八)の鶴岡道場大法会の供奉随兵(ぐぶずいへい)、同五年(一一八九)の奥州平泉藤泉泰衡(やすひら)討伐戦への従軍、建久六年(一一九五)頼朝の東大寺・天王寺参詣の供奉随兵のうちにみえる。また建久二年(一一九一)に頼朝が三浦義澄の新築の邸宅に遊んだとき、三浦義村・三浦景連・佐貫四郎とともに、終日相撲をとったという。実春が強力の士として知られていたからであろう。実春の姿は建久六年(一一九五)の頼朝の上洛に供奉したあとみえなくなる。おそらくそのころ晩年をむかえ、大井実澄氏所蔵「大井系図」に伝えるように、元久三年ころ、鎌倉の邸か大井郷の館で死んだであろう。
『吾妻鏡』は、大井実春の呼び名を、次(二)郎・兵衛次郎・兵三次郎と表記している。そうすると、建久元年・建久二年・建久三年の「次郎」も実春である可能性が出てくるが、建久六年の東大寺参詣供奉随兵では兵三次郎(実春)と「次郎」を別人に書きわけているので、ここでは「次郎」を正治元年、同二年の記事により、大井実久としておく。しかし『吾妻鏡』の表記を、まったく正確なものといいきれないから、建久元年・二年・三年の「次郎」が実春である可能性は、依然として残っている。