十二世紀の九十年代になると、大井実春とともに、大井姓を称する人々が、ぼつぼつ『吾妻鏡』にみえてくる。建久元年(一一九〇)の頼朝上洛に供奉した四郎太郎・次郎・五郎、翌年の箱根・伊豆山参詣に供奉した次郎らがみえ、正治元年・二年(一一九九・一二〇〇)に次郎実久の名がみえる。四郎はのちの薩摩大井氏の祖になった秋春であり、次郎は実久であろう。この実久が実春のあとをついだ大井氏の惣領と思われる。
建久三年(一二九二)、実久は永福寺(ようふくじ)の作庭にあたり、畠山重忠・佐貫大夫とともに庭石を運んだ。永福寺は、頼朝が藤原秀衡の奥州平泉大長寿院の荘麗な二階大堂を模して鎌倉に建立した寺院である。のちこの寺の二階建て本堂が有名になって、二階堂という地名が生まれた。頼朝は建久三年(一二九二)七月に征夷大将軍となり、八月には次男実朝が生まれた。頼朝の周辺はよろこびにつつまれていた。永福寺の建立には、頼朝の事業完成の記念碑の意味がこめられたのであろう。それだけに頼朝は建築と作庭に大変な力をそそぎ、みずから何回も出むいて工事を監督した。堂前の作庭を静玄という僧にあたらせ、近国の御家人から三人ずつの人夫を徴し、諸所から集めた数十の巌石がつもって丘をなしたという。そして気に入らない石組みの修正を静玄に命じ、実久らに巨石を運ばしたのである。畠山重忠は、これより前に、一丈(三メートル)ばかりの巨石を池の中心に運んで、みる人をおどろかせたというから、実久の強力も相当有名であったのだろう。『吾妻鏡』は実久らについて、「およそ三輩のつとめ、すでに百人の功に同じ、(頼朝)の御感再三におよぶ」と書いて、かれらの強力をたたえている。今日、鎌倉市二階堂の永福寺跡(国の史跡)には、重忠が立てた巨石をはじめ、実久らが力をつくした石組みが現存し、往時をしのばせる。
頼朝は正治元年(一一九九)正月に死んだ。前年の十二月、稲毛重成が相模川に架けた橋の完成供養に臨み、帰途落馬して発病したという。長子頼家があとをついだが、偉大な独裁者頼朝に心服していた御家人たちは頼家を信頼せず、御家人間の対立も表面化した。そのあらわれが梶原景時追放事件である。景時は石橋山合戦で頼朝の危機を救ってから、頼朝にもっとも信頼された第一の寵臣で、侍所の所司(しょし)あるいは別当(べっとう)として、頼朝の独裁体制を支える有力者であった。
この年の十二月、景時は下野小山氏の一族結城朝光(ゆうきともみつ)に謀叛の心がある、と頼家に密告したことから事がおこり、鎌倉在住の有力御家人たちが、景時の処罰を要求する連判状をつくり、大江広元を介して頼家へ提出するという事件にまで発展した。幕府創業の功臣千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政・和田義盛ら六六名が鶴岡八幡宮の廻廊に群集し、公事奉行(くじぶぎょう)人の中原仲業(なかなり)が起草した趣意書に署名したというが、『吾妻鏡』には三九名の姓名を伝え、そのうちに大井実久も加わっていた。実久が当時鎌倉在住の有力御家人の一人と目され、おそらくかれは大井氏一族を代表して署名に参加したのであろう。この事件は、北条氏の執権政治を開く第一歩となった。実久に代表される大井氏一族も、頼朝の死後変化のきざしをみせてくる幕府政治の渦中に、いやおうなく捲きこまれて行くのである。
景時が鎌倉を追放され、一族をひきいて上洛の途中駿河で敗死した正治二年(一二〇〇)正月から、ほぼ一カ月後の二月二十六日、頼家は忌明(きあ)け後はじめて鶴岡八幡宮に参詣した。この時、実久は頼家の甲(よろい)を捧持して供奉する大役を果たした。実久の名は、これ以来『吾妻鏡』から消えてしまう。
五年後の元久二年(一二〇五)に、幕府執権北条時政と、その妻牧の方(まきのかた)および女婿平賀朝政による、将軍実朝廃立の陰謀にさきだち、北条氏の有力御家人排除の犠牲になって、畠山重忠が武蔵の二股川で敗死する。『吾妻鏡』は、北条義時を総大将とする重忠追討軍に加わった御家人の名を列記したあとに、「大井、品河、春日部、潮田、鹿嶋、小栗、行方の輩」と記録するのみで、戦闘に参加した大井氏一族の名はわからない。『吾妻鏡』の編纂のときに大井氏についての記録が失われてしまったのであろうか。ただわたくしたちは、『吾妻鏡』が大井氏以下の大井氏一族四氏を、児玉・横山・金子・村山党と、武蔵七党の系譜をひく中小武士団と並記していることから、強い同族のつながりのもとに、まとまった軍隊として行動していることを知るのである。
それから八年後の建保元年(一二一三)八月、将軍実朝の大江広元邸移徙(いし)の随兵に、大井実平が参加した。大井実春・実平との関係はわからないが、実平がこの時期の大井氏の中心人物と思われる。ついで実平は、翌建保二年(一二一四)、実朝が建暦二年(一二一二)鎌倉大倉郷に建立した新御堂(しんみどう)大慈寺(鎌倉市十二所)の供養にあたり、北条義時・同時房・同泰時・大江広元ら幕府首脳とともに後騎の一人となり、また建保六年(一二一八)実朝の左大将拝賀の鶴岡八幡宮参詣には、衛府(武官)の一人として供奉した。ついで翌承久元年(一二一九)、実朝の右大将拝賀の鶴岡八幡宮参詣にも後陣にしたがった。実朝が前将軍兄頼家の遺子公暁(くぎょう)に暗殺された、夜陰雪中の惨劇が、この時に突発したのである。
頼朝の死から陰謀がうずまき、動揺をかさねた幕府を、幕府そのものの弱体化と判断した後鳥羽上皇は、承久三年(一二二一)に院の直属武士と、北条氏に不満をいだく御家人をあつめて、倒幕挙兵にふみきり、いわゆる承久の変がおこる。しかし上皇のおもわくはあえなくはずれ、幕府御家人は北条義時のもとに結束して京都に攻めのぼった。最大の激戦が京都南郊の守備線である宇治川で戦われた。『吾妻鏡』には宇治川合戦で奮闘した御家人の名前を詳細に記録しているが、大井氏に関しては、実名不明の左衛門三郎と太郎が敵一人ずつを討ち取った、としている。
承久の変後、『吾妻鏡』の大井氏に関する記録は急に少なくなる。変から一七年後の暦仁元年(一二三八)将軍頼経の上京随兵に大井三郎が加わり、さらに一二年後の建長二年(一二五〇)の京都閑院内裏(かんいんだいり)の造営に際して、二条通りの裏築地二〇本のうち二本分の築造を大井左衛門尉が担当した、という記事があるだけである。もっとも前述のように、大井実平が春日部氏を継いだ可能性もあるから、大井氏の動向がまったく伝わらないわけではないが、幕初のようにははっきりしなくなる。その理由はなにか。はっきりした証拠のない推量にすぎないが、第一にこの時期に大井氏一族の中心が大井氏から春日部氏に移った形跡があること。第二に、宝治元年(一二四七)の三浦泰村の叛乱に春日部実景が加担し、全滅したいきさつ(第11表参照)と関係があるだろう。とくに宝治合戦とのかかわりでいえば、大井氏は叛乱にはくみさなかったが、実景と同族の縁で、執権北条氏からうとまれたことは十分に想定される、もし大井実平と春日部実平が同一人物という仮定が実証できれば、この想定はいっそう現実に近づくかもしれない。いずれにせよ大井氏の動向がはっきりしなくなるということも、宝治合戦にあらわれたように、執権北条氏の専制が進行し、有力御家人が次々と排除されて行った、幕府政治の推移のなかで考えなければならない。