昭和四十年、鹿児島県川辺郡川辺町神殿(こうどん)軸屋に住む故大井兵蔵(現当主は大井光三氏)が、家蔵の古文書一一点を、同町に居住し鹿児島県立図書館に勤務する野間真信氏のもとに持参した。野間氏は、当時宮崎県都城工専に在職した桑波田興氏(現在鹿児島大学)に連絡し、同氏の「大井文書」採訪報告が、雑誌『日本歴史』の学会消息欄に報告された。こうしてはからずも武蔵大井郷出身で、鎌倉時代の中ごろ薩摩国祁答(けどう)院柏原内平河(現鹿児島県薩摩郡宮之城町平川)の地頭として、薩摩に移住した大井氏庶流の文書が学界に紹介された。
「大井文書」所蔵者の大井光三氏は、薩摩大井氏の子孫である。鹿児島県姶良郡加治木町大井実澄氏所蔵の「紀氏大井二ノ家系図」(前掲の「大井系図」とは別本)によると、「姶羅郡帖佐地頭職相勤め」た大井石見守実昌(慶安三年四月卒)が嫡男七右衛門尉実(ママ)を「二男家川辺郡川辺大井右京、実子なきゆえ、願により養子」につかわした、といい、川辺大井氏を帖佐大井氏の庶流としている。この記述は、薩摩藩士の由緒を書きあげた『諸家大概』(『鹿児島県史料集』Ⅵ)に「永録(禄)のころ、大井石見守帖佐地頭職おおせつけられ候、その子孫河辺にまかりあり候七郎兵衛にて候」とある記事と照応するが、嫡庶に関しては触れていない。「大井文書」の大部分が案文(写し)であることが、「紀氏大井二ノ家系図」の所伝を裏書きするかもしれない。
この文書の出現は、従来『吾妻鏡』によってしかたどれなかった大井氏の姿を、武蔵における所領のあり方、薩摩移住と、その地における動向などの面にまでひろげて研究することを可能にし、ひろく東京の歴史を研究するうえにも貴重な手だてをもたらすことになった。「大井文書」は全部で一一点というわずかな数量で、しかもうち一〇点が案文(写し)であり、正文(原文書)は暦応三年(一三四〇)の大井小四郎宛島津道鑑(貞久)軍勢催促状一点にすぎない。しかし一〇点の案文は、紙質・筆蹟から判断して、おそらく室町時代をくだらない時期に写されたものと考えられ、誤写と思われる箇所や、文書形式・文体などの疑点を厳密に検討して研究をすすめれば、大井氏に関する有効な史料であることにかわりない。以下「大井文書」が明らかにしてくれる事実と、薩摩大井氏の動向は次節で述べることとし、ここでは秋春系大井氏の武蔵荏原郡における所領を検討してみよう。
「大井文書」は、『品川区史資料編』に全文書を収録したほか、五味克夫「大井文書」(鹿児島中世史研究会編『中世史研究会会報』七)、大田区教育委員会編『大田区の古文書(中世編)』(大田区の文化財第四集)に収録されている。また杉山博「大森周辺の武士と農民――『大井文書』などを中心として――」(『日本史籍論集』上巻)が全文書を掲載して大井氏の大田区域における所領の研究を行なっている。