大井秋春

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「大井文書」を伝えた薩摩大井氏は、大井氏の初代大井実春の四男四郎秋春の家系である。秋春が建久元年(一一九〇)の頼朝の上洛に供奉した随兵の一騎であったこと、建長二年(一二五〇)の閑院内裏造営に、二条通りの築地を築造した大井左衛門尉が秋春であったろうことは前に述べた。

 秋春は元久元年(一二〇四)十二月、父実春から武蔵国荏原郡大杜(もり)(森)・永富両郷を譲与された(資二郷第六八図)。八年後の建暦二年(一二一二)幕府は将軍家(源実朝)政所下文で「親父実春法師の譲りにまかせて」秋春の所領相続を保証した(資三号)。この政所下文案は前部が欠けているので、所領の内容は不明であるが、そのうちに、父から譲与された大森・永富両郷がふくまれていたと考えてまちがいない。それから四〇年後の建長四年(一二五二)三月五日に左衛門尉と称する人が、譲状をもたないものの遺領田畠の相続権主張を禁ずる置文(遺言状)を作った(資九号第六九図)。この置文の文中に「実春入道」を「故入道」といい、自身の死後のことを「秋春一期(ご)のほどは」と表現しているから、左衛門尉が秋春であることが確実である。


第68図 大井実春譲状案(大井文書)


第69図 大井秋春置文案・沙弥蓮実譲状案(大井文書)

 ところで秋春の生存の下限はいつごろであろうか。いまかりに秋春が建久元年(一一九〇)の頼朝の上洛に供奉したときの年齢を二十歳と仮定すると、置文を作った建長四年(一二五二)には八十二歳と計算され、かなりの高齢ではあるが生存は不可能ではない。秋春置文から二六年後の弘安元年(一二七八)九月十八日、実名が不明で法名を蓮実と袮する人物が、その子息彦次郎頼郷に、荏原郡大杜(森)・永富両郷地頭職と、伊勢国鹿取庄のうち、上郷の地頭職および鎌倉の居宅を譲与した(資一四号第六九図)。蓮実は秋春の法名ではない。なぜなら秋春の推定上の年齢を弘安元年まで延長すると百歳以上になり、ここまで秋春の生存を考えるのは無理である。したがって蓮実譲状にみる「親父左衛門尉」が秋春であり、逆に蓮実は秋春の子ということになる。秋春は、おそらく建長四年に迫りくる死期を予感し、みずから自筆の置文を作り、ほどなく死んだのではなかろうか。このようにして「大井文書」の発見によって、大井氏惣領家の活動にかくれたためか、『吾妻鏡』にはほんのわずかしか記録されなかった一人の地頭領主の存在を確認できたのである。

 さて秋春系大井氏のあとは、蓮実から子息彦次郎頼郷にひきつがれた。頼郷は弘安七年(一二八四)八月十六日に嫡子薬次郎あての譲状で荏原郡大森・永富両郷等を譲与した(資一六号第七一図)。頼郷はこの譲状では左衛門尉を称している。それからしばらく系図を復元できる文書がとだえ、鎌倉時代最末期の元徳三年(一三三一)五月四日、沙弥行意が養子千代寿丸に大森・永富両郷などを譲り、大井姓を名のらせた(資二三号第七七図)。行意は大井頼郷の子で、渋谷祁答院氏を継いだ行重の法名である(次節参照)。その三年後の建武元年(一三三四)九月八日、武蔵守兼武蔵守護足利尊氏が、大井千代寿丸の所領大森・永富両郷地頭職に対する「悪党人」の押領を禁じた(資二四号)。

 以上、「大井文書」を年代順に配列して秋春系大井氏の家系をたどると、次のような系図が復元できる。


この復元系図は『尊卑分脈』や『続群書類従』の紀氏系図(二二一ページ)にはまったく現われない家系である。『尊卑分脈』が編纂された室町時代中ごろになると、秋春系の薩摩大井氏は武蔵における所領を失い、もっぱら薩摩の地を活動の舞台としていたであろうから、大井氏の惣領家との関係もうすくなって、「紀氏系図」に載せられなかったのではあるまいか。