東京の歴史を研究するうえに、「大井文書」の発見がもたらしたもっとも大きな福音は、ごく限られた範囲ではあるが、東京南部における中世の在地領主の所領が明らかになり、その伝領系統がたどれたことである。その在地領主とは、もちろん秋春系の大井氏である。すでに私たちは、十二世紀の中ごろ大井実直が国衙領大井郷や、武蔵の国衙が支配する国保の六郷保郷司職をもつ在地領主として成長してきたと想定したが、秋春系大井氏は、国保たる六郷保を構成する大森・永富両郷を、大井氏の始祖大井実春から継承したのである。所職の内容は地頭職であった(資一四号)。そして両郷の地頭職は、秋春系大井氏の「重代相伝の所領」(資一六号)であり、「惣領職」として代々相続されるものであった(資二三号)。
いうまでもなく、秋春が父実春から譲られた所領が、大井氏の全所領ではない。実春の子には『吾妻鏡』によるかぎりでも、次郎実久・四郎秋春・五郎の三子があり(第12表)、太郎と三郎を想定すれば五人となって、秋春が父から与えられた所領は、大井氏の全所領の五分の一ということになる。大井氏の本拠地大井郷は、もちろん本家が相続したはずである。大井郷と秋春の所領大森・永富両郷とは、ごく隣接した場所であるが、一世代前に大井実春と品川清実兄弟が、父実直の所領を分割相続し、指呼の間の大井と品川に分かれ住んだと同じように、秋春の兄弟が大井郷近辺の父実春の所領を細分して相続したことは十分に考えられる。こうして大井氏の所領は、世代を重ねるたびに次第に分割されていった。私たちは、ここにも中世の武家の所領=家産の相続形態と細分化の傾向をみ、所領の維持と拡大への要求が、鎌倉幕府という武家政権を成立させる原動力であったことを知るのである。
秋春系大井氏の根本所領である大森・永富両郷は、現在のどこにあたるだろうか。元久元年の実春譲状案(資二号)は、両郷の四至(しし)(東西南北の境界)を「東は海を限る、南は鳥羽川の流れを限る、西は一木を限る、北は那由溝を限る」と書いている。大田区教育委員会編『大田区の古文書(中世編)』は、この四至を、東の海=東京湾、南の鳥羽川=旧呑川、西の一木=不明、北の那由溝=旧内川につながる旧称やえんぼり、と推定し、杉山博氏は、西境の一木について『新編武蔵風土記稿』の市野倉の箇条に「古は市野村と唱へしよし伝ふれども、已に正保の頃のものには、今のことくしるしあれば、改りしも古きことしらる」という記事から、市野倉の旧称市野が、一木に由来するのではあるまいか、としている(杉山博「大森周辺の武士と農民」)。このような四至の現地比定は正しいだろう。そうすると、両郷の地域は、現在の大田区大森西(一~七丁目)、大森中(一~三丁目)、大森東(一~五丁目)の地域、すなわち江戸時代の荏原郡北大森村・西大森村・東大森村の三ヵ村の村域にあたるだろう(第六〇図)。中世の大森郷は、近世の三つの大森村に郷名を伝えた。永富郷は東大森村にふくまれて旧称を失った。しかし現在、大森東五丁目に中富小学校、同三丁目に中富橋があり、永富郷という中世の郷名を伝えている。おそらく現在の大森東の各丁目が、永富郷の郷域であったのであろう。なお旧西大森村の南境(現大森中三丁目付近)に「堀の内」という小字があった。この「堀の内」が中世の居館を意味するならば、秋春系大井氏の大森・永富両郷の支配と関連して考えるべきであろう。
前述のように秋春系大井氏の根本所領は、大森・永富の二郷であった。この両郷のほか秋春の子孫に伝えられた所領には、かつて文治元年(一一八五)、頼朝が河越重頼から没収して、大井実春に与えた伊勢国香取五ヵ郷の一部があった。弘安元年(一二七八)に、大井蓮実が子息頼郷にあてた譲状案(資一四第六九図)に「伊勢国鹿(香)取庄内上郷地頭職」と書かれている所領で、蓮実の時代には香取庄五郷が分割され、蓮実は上郷のみを頼郷に譲与している。蓮実は秋春の子息であろうから、五郷分割の時期は明らかでないが、秋春が五郷の全部ないし一部を父実春から継承し、さらに子蓮実に伝えたであろう。ついで頼郷は弘安七年(一二八四)に同郷を子息薬次郎に譲与した(資一〇号第七一図)。香取庄上郷は、のちさらに分割され、上郷のうち是利名・重□名が延慶三年(一三一〇)、すでに大井氏を出て、薩摩の渋谷祁答院氏を継いだ行重(頼郷の子)から、大井小四郎の子、王一に与えられた。以後香取庄に関する文書は絶えるが、平氏の旧領と推定される所領が、鎌倉幕府という権力をなかだちにして、はるか遠隔の地に住む大井実春の領有に帰し、その後分割されながらも長い期間にわたって大井氏庶流の所領として伝領されたのである。