大井氏所領の農民

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秋春系大井氏の、もう一つの所領に、荏原郡堤郷における在家(ざいけ)農民の支配と直営地の経営があった。「大井文書」が東京の歴史を研究するうえに貴重である理由の一つには、鎌倉時代の東京に生活した農民の姿を、かいまみることができるからである。武蔵を東京都域にかぎってみると、鎌倉時代の文書はごくわずかしか残存せず、しかもほとんどが領主の文書であって、農民の手でつくられた文書はおろか、当時の農民生活の実態の示すものがなかった。そのような史料的制約のなかで、「大井文書」には東京都民の七百年前の先祖が、おぼろげながら姿をみせているのである。

 弘安七年(一二八四)八月十六日、大井頼郷は嫡子薬次郎に荏原郡大森・永富両郷と伊勢国香取上郷地頭職および鎌倉今小路の居宅とともに、荏原郡堤郷にかう大夫入道・次郎太郎らの田在家と手作り地を譲与した(資一六号第七一図)。

 堤郷は江戸時代の六郷領堤方村であろう。住居表示改正以前の大田区堤方町であり、現在の池上一・四・五丁目にあたる。東急池上線池上駅東北方一帯のせまい地域で、中央に呑川が流れ、品川から大井を経て矢口の渡に至る池上道(旧東海道)が呑川を渡るところに堤方橋があり、本門寺境内の地続きに堤方神社(旧堤方村鎮守熊野社)がある。『新編武蔵風土記稿』には「村名は土人の話に郡内池上村西南の方の耕地に小名内池と云所あり、往古は千束池の支流にありしが、やゝもすれば其水溢(あふ)れけるにより、此地に水除(よけ)の堤ありしとぞ、当村はその堤の傍(かたわら)にあるをもって地名おこれり、昔は文字も堤傍と書せしに、いつしか今の字を用いるやうになりしと、されど永禄の頃にははや堤方としるしぬれば、それも古きことゝ見ゆ、彼の堤の蹟(あと)とて、今も村内所々に小高き所あり」と、古い時代の治水の伝承が書かれている。


第72図 堤方神社


第73図 堤方橋

 私たちは頼郷の譲状で堤郷のにかう大夫入道と次郎太郎という農民が、他の所領から区別されていることに注意しよう。二人の農民は「在家(ざいけ)」と表現され、頼郷の私的な財産として薬次郎に譲られているのである。このような農民の状態は、純粋な奴隷を除く古代の班田農民にも、まして近世の農民にはなかったことである。どうしてそのようなことがあり得たのであろうか。それは、にこう大夫入道や次郎太郎が「在家」といわれる特定の歴史的性格をもつ農民であったからである。それでは「在家」とはなにか。

 「在家」はもと住居を意味したが、律令制の土地制度が解体したあと、古代中末期から中世にかけて、関東のような辺境地方にみられる一般的な農民のあり方をあらわすことばに変化した。ごく簡単にいって、「在家」は中世の国衙領や荘園で、領主が年貢や労働力を徴集する単位であった。その点では経済的に先進地域である畿内や、その周辺の農民の一般的な存在形態である名主(みょうしゅ)と共通する。しかし「在家」が名主と異なる大きな点は、辺境地方においては開発領主の系譜をひく在地領主が、数町から数十町におよぶ大規模な領主的名主として君臨し、耕作にしたがう農民が「在家」として在地領主のもとに組織されていたところにあった。そして「在家」農民にとって、かれらが生活する居宅と薗地(えんち)(屋敷畠)に対する権利と、もっとも主要な耕地である水田に対する権利とは決して同等でなかったのである。

 水田は「在家」農民の保有から切りはなされて、国衙や在地領主が所有した。前編で触れたように、律令制の土地制度のもとでは、水田は国家の土地であり、班田農民の水田に対する私有権は確立していなかった。在地領主の土地や農民に対する領有権は、律令国家の土地と班田農民支配と競いあい、それを克服して成立したのであるが、一面では在地領主が国衙の官職につき、その権威をてこに領主化したことに象徴されるように、律令制の土地国有という本質をうけついでいた。この本質が、もともと農民の保有権が未成熟な水田に対する領主のつよい領有権を現象させ、現実に農民が耕作している水田は、農民の経営からきりはなされ、農民は領主の水田を割りあてられて耕作するという状態におしとどめられた。「在家」は在地領主のつよい支配に隷属し、領主の私的財産とみなされ、譲与や売買の対象となっている中世農民のあり方であった。

 大井頼郷譲状案は、秋春系大井氏の所領における農民の姿をおぼろげながら示してくれた。このような「在家」農民が、東京都域でごく一般的であった形跡は、近年『文京区史』編纂で発見された佐賀県の「深江文書」にある次の文書(『文京区史』巻一)によっても確められる。

 

[  ]た□まつゝる(松鶴カ)かはゝ(母)の所むさし(武蔵)の国ゑとのかう(江戸郷)しはさきのむら(芝崎村)の[  ]一宇かうた入かさいけ(在家)、をなし(同)きうしろ(後)のさいけ(在家)つきのはた(畠)らけ、ひかし(東)ハこちらたかつくり(作)のはたけ(畠)のさかい(境)をかきる(限)、にしきた(西北)ハ田をかきる(限)、をなし(同)きさいけ(在家)つきの田六反、同つく(佃)田二反、かのところ(所)は重政かちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりやう(私領)なり、しかるをまつゝる(松鶴)かはゝ(母)に、後家分としてゆずりわたす(譲渡)ところ実なり、よ(仍)て後日せうもん(証文)のために譲状如件

  弘安二(四)年卯(四)月十五日   (押紙)多賀谷八郎 平重政(花押)

     (裏書)任此状、可令領掌之由、依仰

     下知如件

      元亨三年五月八日

                相模守(花押)

                修理権大夫(花押)

 

 松鶴の母に後家(ごけ)分として所領を譲りわたした平重政は、村山党金子十郎家忠の二男家政を始祖とし、武蔵国埼玉郡多賀谷(たがや)郷に本拠をおいた多賀谷氏である。この史料は数少ない江戸郷に関する初出の史料であること、江戸氏の本拠地江戸郷にも異族多賀谷氏の所領があったこと、などを立証する貴重な史料であるが、ここでは江戸郷芝崎村(現千代田区大手町附近)の農民が領主多賀谷重政から「在家」としてとらえられており、同時期の堤郷の農民とまったく同様であることに注目したい。

 たまたま現在に伝わり、ともに最近発見された二通の史料は、鎌倉時代の東京都域の農民が、「在家」として領主のつよい支配に隷属し、家族や居宅・薗地とともに領主から財産視される状態にあったことを明らかにしている。このような状態を、日本の農民の土地に対する保有権発達の長い歴史のなかに置いてみるとき、「在家」農民は、土地国有を原則とする律令制下の班田農民の地位から脱け出してはいるが、国家の公権の一部をうけつぐ在地領主に人身的に隷属し、近世の本百姓のように土地保有権を領主から認められていない未熟な段階にあった、といわなければならない。頼郷譲状案にみえるにこう大夫入道や次郎太郎らは、このような「在家」農民であった。

 『新編武蔵風土記稿』が伝える堤方村の開発伝承が、大井氏の主導による呑(のみ)川水系の治水と、築堤工事の記憶に由来するとすれば、水田耕作に欠かせない灌漑と排水施設を大井氏が掌握し、それをてこに「在家」農民を支配できたであろう。頼郷譲状案や多賀谷重政譲状にみえる「手作り」・「佃(つくだ)」=領主直営地も、耕作労働力に徴発される隷属的な農民があってこそ、経営が可能であったのである。

 武蔵国は元暦元年(一一八四)六月に頼朝の知行国となり、平賀義信が武蔵守に任命された。以後鎌倉時代を通じて武蔵国は将軍知行国であり、国務は執権北条氏の直系に継承された。大井氏一族を本来武蔵国衙の命令系統に属する国衙領の郷司と推定したわたくしたちは、品川区域とその周辺における当時の支配関係を、鎌倉幕府(将軍)――武蔵国衙(執権北条氏)――郷司・地頭(大井氏一族)――農民という系列で考えることができる。鎌倉幕府の隆盛、執権政治の繁栄、また大井氏一族の活動は、草深い品川区域の農村で、農業生産に従った無名の「在家」農民が作り出す社会的富のうえに築かれた、という事実を忘れてはならない。そして「在家」農民が水田との結びつきを強め、自立した農民に成長することが、当時の農民の歴史的課題であったのであり、そのことが領主自体の性格をいやおうなしに変化させ、歴史の表面に生起する諸事件を通じて社会の変革をもたらしたのである。