昭和四十年十二月八日、鹿児島県薩摩郡宮之城町一ツ木の若宮八幡宮に、鹿児島市郡元(こおりもと)町大井たつ・薩摩郡樋脇(ひわき)町大井一夫・同郡入来(いりき)町大井誉・川辺郡川辺町大井光三・姶良(あいら)郡加治木(かじき)町大井実澄・鹿児島郡吉田町大井実起・同町大井節の諸氏が参詣し、大井氏一族会が催された。おたがいに初対面でありながら心からうちとけて、和気あいあいのうちに大井氏の先祖をしのんだ(市来家隆稿本「祁答院行重の素性とその事績」)。十二月八日は一ツ木若宮八幡宮の例祭日で、この催しを呼びかけたのは、祁答院(けどういん)町在住の篤学な郷土史家市来家隆氏である。
享保年間、土持(つちもち)政博が著わした『祁答院記』というこの地方の地誌は、「同所(一ツ木)、若宮八幡宮、この御神はむかし大井氏、関東鶴岡の霊社をいだきたてまつり、この里に崇(あが)め守り神となし」、「今において薩州の士大井勝左衛門家より御祭日に参詣」すると伝える。市来氏は、『薩摩町郷土史』の著述にあたり、『島津家文書』(『大日本古文書』家わけ第一六)などに所収の暦応四年(一三四一)七月「渋谷千代童丸代信政本解(げ)案」(資二六号)が伝える同年五月五日における高城(たき)渋谷権守重棟(しげむね)子息弥四郎重春らの、渋谷千代童丸祁答院太郎丸長野城攻撃に参加した大井小四郎・同四郎・同三郎の素性を調べていた。そして『祁答院記』の一ツ木若宮八幡宮勧請の伝承と、大井たつ・大井一夫家の現在まで続く例祭参詣の事実を、南北朝時代以後祁答院地方で活躍する大井氏の余栄と考え、大井氏の出自を追究されていたのである。
ちょうどそのころ、川辺町大井光三氏所蔵の「大井文書」が発見され、それを機会に、市来氏がすでに熟知していた大井氏の子孫諸氏への、一ツ木若宮八幡参集の呼びかけとなり、昭和四十年の例祭日に実現したのである。そのときに「大井文書」をはじめ諸家に伝わる史料が持ちよられ、いろいろなことが明らかになった。わけても市来氏にとって大きな収穫は、中世祁答院地方の領主祁答院渋谷氏の四代平次郎行重(ゆきしげ)(法名行意(ぎょうい)が、祁答院氏の直系でなく、実は大井頼郷の子で、祁答院重松(しげまつ)の養子であることが実証されたことであった。こうして武蔵大井郷出身の大井氏の一流と、相模高座郡出身の渋谷氏の一流とが、はるか薩摩の地で結びついた。
薩摩祁答院地方は、現在の鹿児島県薩摩郡薩摩町・祁答院町・鶴田町・宮之城町の範囲にあたる広大な境域を占める中世の支配領域である。薩摩・大隅・日向の南九州地方は、律令郡制の変質後、国衙領の支配は郡郷司らの在地領主の支配にゆだねられ、郡院郷庄が分立した。このうち「院」とは、もと国や郡に設置され租税を収納する倉院(そういん)と、その機構のことであったが、郡衙以外にも適宜に倉院が置かれるようになり、倉院の事務をつかさどる官吏を院司といった。郡がいくつかの「院」に分割され、「院」が在地領主化した院司や郡司の支配領域となった。祁答院は、入来院とともに薩摩郡内に成立した「院」で、建久八年(一一九七)の「薩摩国図田帳写」(『島津家文書』一)によると、祁答院一一二町は島津庄寄郡(よせごおり)で、地頭は千葉常胤であった。
島津庄は平安時代中期の万寿年間(一〇二四~二七)大宰府の大監平季基(すえもと)が、日向国諸県(もろかた)郡島津(現宮崎県都之城市)の荒野を開発し、関白藤原頼通に寄進して成立した。以後、日向・薩摩・大隅の在地領主の所領寄進がすすみ、三国にまたがる広大な島津庄が成立した。一円庄と寄郡に分かれ、寄郡は正税(しょうぜい)と官物(かんもつ)を国衙に負担し、国衙と島津庄に両属した。