祁答院行重

255 ~ 266

島津庄寄郡の地頭職は、幕初以来千葉氏の直系が継承したが、宝治元年(一二四七)の三浦泰村の乱に、千著秀胤が連坐して地頭職を没収された。そのあとをうけて、北薩地方の寄郡地頭職に、相模高座郡を本拠とする渋谷氏嫡流の渋谷光重が任命された。翌宝治二年(一二四八)、光重は太郎重直を本国にとどめ、二郎以下五人の兄弟を薩摩に下し所領の支配をゆだねた(「入来院氏系図」)。略系図を示すと次のようである。



第75図 鹿児島県祁答院地方
A紫尾神社 B川口 C平川 D柏原 E-ツ木 F大願寺 G松尾寺 H佐志 I仮屋原 J時吉

このように渋谷光重の五人の兄弟は、北薩の地に移り、それぞれ本拠とした地の地名を家名にとり、それぞれ一族を分出する一方、渋谷氏一族の結びつきを維持して、南九州の歴史に大きな足跡を残した。

 略系図に示したように、祁答院氏は光重の三男重保に始まり、祁答院地頭または柏原地頭職を保持した。柏原(現鶴田町柏原)は祁答院の中心を占め、かつ郡衙所在地(郡山)であり、重保はここを拠点に所領の経営を始めたと思われる。柏原の範囲は現在より広く、「大井文書」・「斑目(まだらめ)文書」によると、鶴田町川口から宮之城町平河に及んでいた(第七五図)。

 さて、『入来文書』の編者朝河貫一氏が諸史料を参考に仮定した祁答院氏の系図は、次のとおりである。


また入来院氏の庶流岡本家伝来の「岡本家文書」所収「渋谷氏系図」(『入来文書』)によると、次のようになっている。


この二つの系図によると、祁答院氏四代の行重は祁答院氏惣領のあとつぎに位置するが、後者には系図上のいとこ重春の子重雄(しげかつ)と母を同じくする兄とある。ここでは行重と重雄は重松の子で重雄が重春の養子になったのか、その逆に二人は重春の子で行重が重松の養子となったかの二とおりの可能性しか考えられなかった。

 ところが行重の出自はどちらでもないことが「大井文書」の発見で明らかになった。「大井文書」は、行重の二通の文書を収めている(資二〇・二三号第七六・七七図)。


第76図 祁答院行重譲状案(大井文書)

(1)伊勢国鹿取上郷内於是利名(これとしみよう)・重□名、薩摩国祁答院内柏原平河[  ]王一に譲り渡すなり、親父大井小四郎殿[  ]存かくのごとく避(さ)り与うるなり、ただし行重実子[  ]至一一期(ご)の後、譲り給うべし、所詮(しょせん)契約のうえは、他の妨あるべからず、もし行重譲りを請くる輩のうち[  ]煩者、かの知行分を申し給わるべし、よって後日のため、[  ]くだんのごとし、

                             左判

    延慶三年(一三一〇)卯月三日  平左(カ)[  ]

                    (原文は漢文)


第77図 祁答院行意譲状案(大井文書)

(2)譲り渡す所領の事

  やうし(養子)千代寿丸ふん(分)

  むさし(武蔵)の国六郷のな(ほ(保))うの内大もり(森)・長□(富)

        (中欠)

  そうりやうしき(惣領職)、鎌倉の屋ち(地)、いま(今)この所には行意・実重の父大井次郎さ衛門頼郷の所領か(な)れハ、そうたふのあと(跡)をつ(継)かせんため(に)と、千代寿ゑひ(永)代をかき(限)りてゆつ(譲)る故なり、名字もなのら(名乗)すへきなり、よって末代のために、自筆のところ(ママ)くだんのごとし、

    元徳三年(一三三一)五月八日   沙弥行意(行重)在判

             (原文はかなまじり文)

すなわち(1)の行重譲状案は、前に述べた秋春系大井氏の所領伊勢国鹿(香)取上郷内の二つの名(みょう)と、祁答院氏の所領祁答院内柏原の平河(現宮之城町上平川下平川)を、大井小四郎なるものの子王一に譲り与え、(2)の行意譲状案は、行意が秋春系大井氏惣領の所職である六郷保大森・永富両郷を養子千代寿丸に与え、しかも大井頼郷が行意と実重の父であると、はっきり述べているのである。この二通の文書によって、行重は祁答院重松の子でも、重春の子でもなく、秋春系大井氏の出身で、祁答院氏の本家を継いだことが明らかになった。

 行重(法名行意)が大井頼郷の子であり、しかも大森・永富両郷を元徳三年(一三三一)まで保持しているのであるから、弘安七年(一二八四)に頼郷から大森・永富両郷、堤郷田在家・手作り、鹿取上郷地頭職および鎌倉今小路の居宅を譲られた童名薬次郎が、行重である可能性が高い。行重の生存下限から推定して、弘安七年に行重の幼時を仮定して、大きなあやまりはない。

 さらに重松と行重との関係を示す興味深い史料がある。現在鹿児島大学付属図書館所蔵の「斑目(まだらめ)文書」のうち、徳治二年(一三〇七)十月「蓮性陳状(れんしょうちんじょう)案」である(資一九号)。この文書は、観聖(かんしょう)(入来院明重の子平三郎重高)と蓮性(祁答院氏の縁族斑目泰景)との間にあらそわれた、祁答院重松の遺領相続をめぐる裁判にあたって、蓮性が提出した反論であるが、蓮性が証拠にあげた正応六年(一二九三)正月十六日の祁答院重松の状に、「孫子(まご)行重は幼少より養子」である、という箇所がある(五味克夫「薩摩国祁答院一分地頭斑目氏について―斑目文書の紹介を中心に―」(『鹿児島大学文学部論集』四)。要するに行重は大井頼郷の子で、同時に祁答院重松の孫ということになる。こうした親族関係をどのように整理できるだろうか。市来氏は前掲の「渋谷氏系図」に、行重は「重雄一腹舎兄(しやけい)」という注記に着目し、重松の娘が大井頼郷に嫁して行重と実重を生み、のち故あって頼郷と離別し、祁答院重春に再嫁して重雄を生み、重松は外孫行重に祁答院氏を継がせた、と解釈される(市来家隆氏前掲論稿)。もっとも妥当な見解であろう。

 それでは、このようにはっきり実証された秋春系大井氏と祁答院との関係は、いったい何に由来するのだろうか。そこで私たちは、前編第四章第三節で考察した兵三武者実直の子伊坂平太実重が、渋谷光重の養子になったという『尊卑分脈』紀氏系図の記述を思い出す。伊坂平太実重と早川二郎実重を同一人物とすれば、大井氏の一員が渋谷家に入って薩摩に下り、薩摩郡東郷(とうごう)別符の地頭となり、東郷氏の始祖になったことになる。これは一つの推定にすぎないが、大井氏と渋谷氏の親近性を考える材料である。おそらくこのような関係が前提となり、秋春系大井氏も渋谷氏と親しい間柄にあったのであろう。渋谷氏兄弟五人の薩摩下向にともなった大井氏の人もあったのではなかろうか。頼郷が祁答院重松の娘をめとったとすれば頼郷は武蔵と伊勢の所領を保持しながら、祁答院氏の縁族として薩摩に移り住んだであろう。それは十三世紀後半のことであり、秋春系大井氏の活動に新らし天地が開けたのである。

 さて次に行重の事績を簡単にふれておきたい。永仁五年(一二九七)二月、行重は縁族斑目景泰(かげやす)らとともに養父故重松(法名行蓮)の菩提を弔い、行重の子孫繁昌を願って、祁答院内佐志名(さしみょう)(現宮之城町佐志)に松尾寺を建立した。このとき行重は祁答院地頭平行重と称している(『祁答院記』所収「松尾寺建立記文案」)。松尾寺はのち興全寺と改め、永禄九年(一五六六)祁答院氏滅亡後、佐志島津氏の菩提寺となった。行重は延慶三年(一三一〇)大井小四郎の子王一に、伊勢国鹿取上郷是利名(みょう)・重□名(みょう)と、祁答院柏原内平河を譲り渡した(資二〇号)。それから一〇年後の元応二年(一三二〇)十月、岩出殿に郡山(こおりやま)の別当(べっとう)職を与えた(『祁答院記』所収「薩摩大願寺寄進地由緒書」)。郡山は柏原の旧地名で、郡衙の所在地を意味した。この記録は、行重が郡衙の所職をもち、郡衙が祁答院氏の拠点であったことを示すだろう。またこの記録にはじめて行重の法名行意がみえる。

 元徳三年(一三三一)行意は前述のように養子千代寿丸に秋春系大井氏の惣領職六郷保大森・永富両郷を譲与(資二三号)した。ようやく晩年をむかえた行意は、おそらく祁答院氏相続後も保持していたであろう大井氏の所領を千代寿丸に譲り、名字を名のらせ、大井氏の惣領に立てて名跡(みょうせき)の継続をはかった。建武元年(一三三四)七月、行意は熊野三所権現社別当寺の紫尾(しび)神興寺(現鶴田町紫尾神社)に弥陀三尊種子(しゅじ)方柱塔を造立して自身の頓証菩提を祈った。行意の没年は明らかでない。祁答院氏の菩提寺柏原大願寺に葬られ、宝塔型の墓塔が大願寺址に現存する。


第78図 祁答院行意造立の方柱塔とその実測図

 昭和四十一年四月、市来家隆氏は鹿児島県文化財専門委員築地建吉氏・指宿(いぶすき)高校河野治雄氏とともに、京都仏教大学斎藤彦松氏に依頼し、宮之城町湯田所在の延文二年(一三五七)記銘磨崖連牌の調査をおこなった。ついでに紫尾神社におもむき、境内を巡見中、本殿右側に三本の古石塔を発見した。二本(第七八図A・A´)は老木の根元に横倒しになり、一本(第七八図B)はやや離れて立っていた。AとBには四面にみごとな薬研(やげん)彫りの種子(しゅじ)(仏を表す梵字)がきざまれ、三本ともに正面に墨書があり、またそれぞれ正面を除く三面にびっしりと種子が墨書されていた。斎藤氏の鑑定では、A・Bにきざまれた種子は、福岡県久留米市善導寺跡開山塔のキリーク種子(阿弥陀如来)に匹敵するすぐれた逸品と判定された。そして第七八図に示したようにA・B正面の墨書によって、この方柱塔が建武元年(一三三四)七月、祁答院行意の建立であることが明らかになった(市来家隆氏前掲論稿)。

 A・A´は、もと一本であったものが、中間で折れている。Aの上部にキリーク種子(阿弥陀如来)が四面にきざまれている。Aの正面は七・五センチ方眼の刻線で一六区(よこ四コマ・たて四コマ)に分たれ、A´は四〇区(よこ四コマ・たて一〇コマ)に分かち、第七八図のような墨書がみえる。A・A´とも正面以外の三面には、キリーク種子の下の約七センチ方眼・四八区画内に種字を墨書するが、全部の判読は困難である。


第79図 バイ種子拓影


第80図 キリーク種子拓影

 Bは上部四面に種子バイ(薬師如来)を刻し、正面に刻線で三行に分かち、第七八図に図示したような墨書があり、他の三面にはバイ種子彫刻の下を、約一〇センチ方眼・三二区画(よこ四コマ・たて八コマ)にわたって種子が墨書されている。これも全種子の判読は困難である。

 市来氏は、行意は当初弥陀三尊の種子方柱塔の建立を発願したらしく、種子サ(観音菩薩)の方柱塔も完成したはずで、A・A´を中心に、それよりやや背の低いBと未発見の種子サ方柱塔が並立していたであろうと推定されている。『祁答院記』によると、鶴田町善福寺跡に建武年号銘記の古石塔がある、と記している。この石塔が、あるいは未発見のサ種子方柱塔ではないかと考え、過去数回踏査したが発見できなかったということである。

 行意の墓は、柏原の大願(だいがん)寺跡に現存する。大願寺は、祁答院氏歴代の菩提寺であるが、行意の墓塔がもっとも古い。『祁答院記』所収「渋谷家重代廟所(びょうしょ)帳」(『入来文書』所収)には、

一行意  同四(五)代左衛門尉重実・行祖 (妙円此三石者、開山堂ノ中ニ建、今者廃壊、

                      渋谷家ノ女子

  祁答院家三(四カ)代平次郎行重也

と、行意とその嗣子行祖(ぎょうそ)(重実)および妙円の墓塔が、祁答院氏歴代の墓と別に、『祁答院記』編纂の享保年間には廃絶してしまった開山堂のなかに建っていると述べている。

 「廟所帳」の記述どおり、大願寺跡の祁答院氏墓塔群から東南約一〇〇メートルの位置に、行意などの宝塔型墓塔三基が、大願寺住職の墓石中にまじって北面している。(第八一図)三基とも相輪部分を失い、行祖墓塔には、塔身の下に他の台座が混入し、妙円墓塔の塔身の上に、五輪塔の上部が重ねられているなどの改変がみられるが、三基とも塔身正面に法名が刻まれ、三基がそれぞれ行意・行祖・妙円の墓塔であることは明らかである(第八二図)。しかし三基とも法名以外の銘文は故意に削りとられている。方柱塔といい、墓塔といい、鎌倉時代末期から南北朝時代に実在し、履歴の明らかな人物ゆかりの石造物が現存することは非常にめずらしく、貴重な文化財である。


第81図 大願寺開山堂跡の墓塔(右から行祖・行意・妙円)



第82図 行意・行祖・妙円墓塔の拓影

 なお鹿児島県姶良郡蒲生(がもう)町上久徳(かみぎゅうとく)上之原町営墓地に「[第一行(挿入)]建武二歳次乙亥二月廿九□(日) [第二行(挿入)]沙弥行意□□□□ [第三行(挿入)]孝子[  ]」と銘文がある五輪塔(火輪を欠く)が現存する(第八三図)。この五輪塔は、もと上久徳二四四六番地の石神謙造氏宅地内にあったものを、一〇年ほど前に石神氏墓地に移したという。本五輪塔の伝来は一切不明であり、祁答院行意の墓か、同法名異人か不明である。後考を期したい。


第83図 沙弥行意五輪塔

 昭和四十三年および四十六年における区史調査員の紫尾神社・大願寺址・蒲生町の調査にあたり、市来家隆氏の御教示と御協力に感謝したい。